養老鉄道と桑名城
今週は名古屋で用事がありまして、ついでに養老鉄道とその周辺をうろついてきました。
養老鉄道は揖斐から大垣、桑名までの意外と長い区間を走行しています。流石に濃尾平野の人口密度が高い地域を走ってるので乗客は意外と多かったのが印象的でした。
また、一見すると1本の路線ですが、実質的には大垣の南北で運転系統は分かれています。東武野田線の柏みたいな感じですね。
まずは朝7時の大垣駅です。ここで一日フリー切符を購入しまして、まずは北の揖斐方面へ行きます。
ごらんの通り、下りはガラガラですね。
特筆することもない田畑の中をそこそこの速さで進んでいき、24分で終点の揖斐駅に到着。
ごく普通ですが、結構風情のある駅舎です。揖斐からの上りは高校生を中心に多くの乗客が乗ってきます。
周辺は市街地という感じではありませんが、バスなどが発着してそこそこ活気はある印象です。
折り返しで大垣に戻り、桑名行きに乗り換えます。
大垣発桑名行きは最初はそこそこ高校生が乗っていましたが、ちょうど真ん中の養老駅近くになると乗客はほとんどいなくなりました。やはり大垣~桑名を通しで乗る人は少ないようです。JRの方が速くて安いのでこれは仕方ない。
濃尾平野の西端を走行していきます。
このあたりは長閑の一言ですねぇ。ある意味では典型的な日本の田舎ですね。
桑名に近づくにつれて乗客も増えていき、大垣から一時間で到着しました。桑名駅自体は三路線が乗り入れていますが、よくある橋上駅なので写真は割愛。
桑名城は名古屋の熱田からの「七里の渡し」があったことで有名で、城下に東海道が通っているため、浮世絵にも描かれています。
海に面している構造が良く分かります。
縄張自体は、海に二辺が面している典型的な平城です。
この図面では北は左で、桑名駅は下にあります。
桑名駅から徒歩10分ほどで外堀の遺構を発見。
しょぼいですが、この位置以外では結構残っているようです。
ここから5分ほどで城跡に到着。本田忠勝が迎えてくれました。
背後の槍は蜻蛉切ですよね・・・?真田丸での忠勝を思い出します。
さて、ここからは城跡に入っていくのですが・・・、正直言って遺構の残り具合はあまり良くありません。
広大な水濠は残っているのですが、石垣が全て無くなってしまっています。
櫓台っぽい跡はありますが、ただの土山に変わり果てています。下の大砲は戊辰戦争当時のらしいですが、なんと詳細不明とのこと。
本丸から二の丸方面を眺めますが、どうにも古地図と地形が一致しません。
本丸跡は神社境内となっていますが、その裏手に天守台跡がありました。
なんか変だなぁ・・・と思ったら、これは昭和の頃に作った模擬天守台とのこと!
なんでこんなに石垣が消えているんだ?と思ったら、明治時代に四日市市の防波堤として使われてしまったらしいですね。
本丸北にある三の丸との間の堀は埋め立てられてしまってますが、それっぽい窪地を発見しました。
本丸南側の石垣跡もごらんの通りです。
本丸をあとにして、七里の渡し方面に行きます。
こちらには蟠龍櫓が復元されています。
なんで本丸ではなくて、城の外れにあるこの櫓?と思いますが、この櫓は七里の渡し近くにありますので、江戸時代を通じて「東海道の桑名城」のシンボルともいえる櫓なのです。
無料で中に入れまして、二階からは揖斐川と長良川が良く見えます。
なんだかえらく白波が立っていますが、どうやらここまで荒れるのは滅多にないらしいですね。
櫓の近くの七里の渡し跡です。
また、こちらは伊勢国一の鳥居です。お伊勢参りの人々がまず初めに通る鳥居でして、伊勢神宮の鳥居を使っています。式年遷宮のたびに新しいのに変わっていますので、いまあるのは平成27年に建てられたようです。
参考:
桑名市観光ガイド・七里の渡し・伊勢国一の鳥居建て替え奉祝祭(お木曳行事)
鳥居と櫓に東海道があるこの景色がある意味では最も桑名らしいかもしれませんね。
また、近辺の堀にはおそらく江戸時代の石垣が残存しています。(写真では分かりにくいですが・・・。)本丸もこのくらい残っていれば、櫓がなくとも日本100名城にはなっていたかもしれません。
ここに舟が沢山ある光景も江戸時代からそう変わってはいないでしょう。
さらに、明らかに枡形門と思われる道路もありました。おそらくは北大手門と思われます。
桑名城はだいたい見終わったので駅に戻ります。実は一時間半くらいしか時間がなかったので、相当な早足で戻ります。
↑駅前にあった昭和感濃厚な商店街。こういう場所はもうちょいじっくり見たかったのですが、時間が無い!
結局は何とか電車に間に合いましたので大垣駅まで戻ります。
つづく