水城・大野城 ~1300年前の石垣・今に伝わる古代の息吹~
水城編
歴史
水城は福岡県太宰府市にある古代の防塁である。
建設されたのは天智天皇3年(664年)のこと。その前年に起こった白村江の戦いで日本軍は唐・新羅連合軍に大敗しており、大陸からの侵攻に備えて建設されたといわれる。
平安時代末期までは博多港と大宰府の間にある関所として運用されていたが、鎌倉時代に入ると放棄され、門は崩壊し濠は埋められ田んぼとなった。
こうして「城」としての役割は放棄されたものの、古代の城として認識はされていたようである。例えば、1480年には連歌師の宗祇が太宰府から博多へ向かう際に水城に立ち寄り、「横たわれる山の如し。尋ぬれば是も天智天皇のつかせ給ひけるとなん……」と『筑紫道記』に記している。江戸時代にかけても地元では薪の拾い場として、そして地域の歴史遺産として維持されてきた。
明治時代になり国道3号や西日本鉄道などが水城を横切るも大きな破壊はされず、今に至る。
概要
普段目にする城とはだいぶ趣を異にします。面としての城ではなく、線で守る防塁なので、役割としては万里の長城に近いですね(規模は全然違うけど)。
やっぱり特筆すべきは建設から1300年以上経った今でもかなりの部分がはっきり残存している点でしょう。GoogleMapでも森が一直線に続いている様子がはっきりとわかります。破壊の危機に晒された的な事も無かったようなので、貴重な遺跡として本当に地元から大切にされてきたのでしょう。
全長は1.5kmほどですが、ちょうど真ん中に御笠川が流れているので通しで歩ける訳ではありません。全部回ろうとするとかなり迂回する必要があります。それは流石にめんどうくさい。
そういう訳で今回は水城館がある北側だけを見てきました。
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県道112号を車で走ると、突然右手に長い土手が見えてきました。丁度広場があったので車を停めます。
これが水城か。
これは凄い。写真だと分かりにくいですが、ごく普通の市街地の近くに土塁が続いています。正直言って周囲はもっと田舎だと思っていました。
土塁が一直線に続いている様子は結構壮観です。春先は土手の桜が一斉に咲いてそれはそれは綺麗らしい。
土塁の断面です。高さ5mくらい?そこらの城では見られない高さです。
こっちは土塁の裏(内陸)側。幅50m高さ2mほどの台地が土塁に沿って続いています。遺構かどうかはよく分かりません。自然地形かも?
遺構として見るべきはこのくらいで終わり。すぐ近くに水城館という小さな展示館があるので行ってみます。
土塁の展示を発見。どうやら高さ2mほどの広い台地も土塁の一部だったようです。
低湿地に築かれたので、土塁の下は敷粗朶という工法で築かれたとのこと。これは細かい枝葉を練り込む技法です。一方で高い土塁は版築になっています。
とにかく非常に手間がかかっている事が良く分かります。1300年残るのも納得。本当に古代日本は危機感を持ってこの水城を築いたんだなぁ。
水城館の上からは水城が眺められるのですが……ん~一直線に続いている様子は分かるような分からないような。GoogleMapの方が分かりやすいですねw
ちなみに現代の県道112号は古代の博多と大宰府を結ぶ道とほぼ一致しています。下の写真で並んでいる棒は古代の道を記しているらしい。
この道のすぐ脇にあるのが古代東門も礎石。江戸時代には鬼のまな板と呼ばれていたようであるが、一方で古代の遺跡である事も認識されていたらしい。
東門付近の遺構はこれで全部です。西門の遺構もありますがちょっと遠いのでスルー。
次は、水城の後ろに控える古代山城「大野城」に行ってみます。
大野城
歴史
大野城は福岡県大野城市と太宰府市にまたがる古代山城である。
水城とほぼ同時期の665年に建設された。大野城の麓にある大宰府の防衛を主な目的とする。城としては建設から50年ほどで廃れたらしい。
774年に四王寺が建立され、山全体が四王寺山と呼ばれるようになった。なお、四王寺もいつの間にか廃絶した。
戦国時代末期には南側斜面に岩屋城が築かれ、高橋紹運と島津軍の攻城戦が繰り広げられた。この戦いは高橋勢763人が全滅した一方で、島津軍も5000人近い死者が出るなどの激戦である。
大正時代に発掘が始まり、土塁が山をぐるりと囲んでいることが明らかになった。また、倉庫などの礎石も複数個所発見された。昭和51年に公園として遊歩道などが整備され今に至る。
概要
まぁまずこれは言っておきたいんですが、大野城は大野城市にあるのでweb検索がめんどうくさい。「大野城 地図」なんかで検索すると間違いなく大野城市の地図が出てきます。
これには理由があるらしく、福岡県大野町だった頃に市制をしようとしたところ、既に福井県大野市があったので、仕方なく大野城市にしたとのこと。市制しようと思たら既に佐賀県鹿島市があって泣く泣く鹿嶋にした茨城県鹿嶋市みたいなものか
なお、大野城の読み方は「おおののき」ですが、大野城市は「おおのじょうし」です。
さて、この大野城が朝鮮式の古代山城なので、戦国時代の城とはかなり趣が異なります。言葉で説明するより下の図を見た方が早いので、まずはご覧ください。
(宇美町役場 「大野城散策マップ」より)
要するに、山全体を土塁で囲んで要塞化しているのです。土塁の全長は8.4kmととてつもない大きさですが、土塁の中は建物が何棟があるだけで自然そのままの里山が広がっています。本丸・二の丸といった面で防御する仕組みではなく、土塁という線で防御する仕組みです。
この辺の事情は下記サイトに詳しいので必見です。
この古代山城は日本にいくつもあるのですが、この大野城は土塁がよく残存している他、石垣も各所に残っている点が特筆されます。特に北側にある百閒石垣がすごい。1000年以上前の石垣が180mほども残っているのは奇跡的と言えます。
また、土塁に沿って遊歩道も整備されています。一周には3~4時間ほどを要するので結構ハードですが、折角だしと思い一周歩いてみることにしました。
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水城から直線距離で約3㎞。殆ど至近距離に大野城がある四王寺山はあります。
パッと見では普通の里山ですね。あそこに古代の城が眠っているとは到底思えない。
水城から車を走らせること20分。山道を通って焼米ヶ原の駐車場に到着しました。ここは大野城のほぼ南端にあたります。
よし、大野城一周スタートです。時計回りに歩きます。
整備はされていますが、あくまで普通の山道ですね。
ちょっと分かりにくいのですが、多分今立っているのが土塁跡です。高さは2mほどでしょうか。
5分ほど歩くと増長天礎石群に着きました。仏教的な名前ですが、古代の倉庫だと考えられています。後世、この辺りに増長天のお堂があったからこう呼ばれるようになったらしい。
」
ここまでは内側の土塁を歩いていましたが、外側の土塁にある大石垣を見る為に南に行ってみます。
ちょっと歩くと外側の土塁に遭遇。
ふむふむ、高橋紹運がここを利用していたとな。
高橋紹運は大友氏の重臣で猛将として有名です。その猛将ぶりたるや凄まじく岩屋城の戦いでは763人の兵と共に城に立て籠もって、島津兵4500人を殺しまくった挙句、割腹自殺して果てたというかなり凄まじいエピソードがあります。薩摩武士相手にこれほど苛烈に戦った人間はおそらくいません。
で、その高橋紹運が古代の土塁を使って馬の訓練をしていたと。歴史って面白いですねぇ。
ここから土塁沿いに歩くのですが、道がはっきりしておらずかなり苦戦。さっきの水城館で等高線入りの地図を手に入れていたので迷いはしませんでしたが……落ち葉で道が埋まっており非常に分かりにくいのです。
しばらく歩いて現れたのは鎖場のような急斜面。一瞬ここを下るのか?と躊躇しましたが、ロープが一応あるし、地図を見ると確かに急斜面になっています。ええいままよ!
下まで降りるとちょっとした広場に着きました。ふぅ……。
さぁ、最初の見どころ、大石垣がここから横を見るとドドンとあるはず!
あ~、うーむ、ヤブいな……。
確かに石垣ですが、ヤブくて全容が良く分かりません。
しかもこの大石垣、平成15年に土砂崩れで一度崩壊しているらしいんですよね。
1300年残ってきたものがつい最近崩壊したとはなぁ。写真という記録が残っているので再建できたのは運が良いのやら悪いのやら。江戸時代に崩壊しても誰にも気づかれずそのままになっていたでしょう。
大石垣を出て再び土塁沿いを歩きます。
さっきの急斜面は凄かったですが、ヤバかったのはあれだけで基本的には緩いアップダウンの尾根道。
水城口城門跡に到着。土塁上にはこのような城門が10個ほどあったとされています。ここは門の礎石が残っており非常に分かりやすい。
この城は発掘された礎石の遺構はちょくちょくありますが、1300年前から全くの同じ位置にある遺構はこれだけだと思います。雨にも流されず1300年前から同じ場所にあるのかと思うと感動です。
尾根道をしばらく歩くと鳥居が見えてきました。
この鳥居をすぎると、大野城の最高地点である大城山に到着。
山頂には中くらいの石が沢山あるので狼煙台の遺構かも?と考えられているようです。
樹林帯なので展望は微妙ですが、木々の間からは水城がはっきりと見えます。
おお~本当に一直線になっている!これは感動です。歩いた甲斐があった。
大城山を越えて再び土塁歩き。
20分ほど歩くと、大野城のハイライトである百閒石垣が見えてきました。
うお……これは結構凄いぞ。
さっきの石垣のように谷底ではなく、斜面に石垣が累々と築かれています。かなりの斜度があり、ここに築くのは相当の技術力が必要だと思います。
積み方自体は荒っぽいんですがねぇ。こんないい加減な積み方で1300年も残るものなんですねぇ。
いやぁこれは凄い。緩やかにカーブする石垣は、戦国時代の山城とは全く違う味があります。ここだけでも見に来る価値はあるでしょう。
百閒石垣を超えたのでここからは後半戦。相変わらずの山道。これじゃ城巡りというか普通に登山だな……。
徒歩10分ほどで中石垣が見えます。地面が悪いのかこっちは立入禁止です。高さだけ見たら百閒石垣よりありそう。
急なアップダウンのある道を歩き続けて……
小石垣に到着。確かに小さい。ここも大石垣と同じく、砂防ダムのように谷を埋める形で石垣が積まれています。
往時はもっと色々な場所に石垣があったのではないでしょうか。大石垣のように土砂崩れで崩壊した石垣も結構ありそうです。
小石垣から10分ほどで、東側の最高地点である大原山に到着。この辺りは道が入り組んでおり注意して歩く必要があります。実際に老人10人くらいのグループが迷っていたので案内しました。
ふぅ……既に2時間経過して結構疲れています。暑いし。
この辺りも基本的には平凡な道ですが、時々こういう所があるから驚く。幅1mほどの細い尾根道です。これは人工物なのか……!?だとしたら相当すごいが。
サクサク歩いて城の南東にある遠見所に到着。既に9割ほど歩いています。
ここはこの城で唯一見晴らしが良い場所です。山越しに福岡の高層ビルも見えます。
東には大宰府天満宮と九州国立博物館ですね。
既に9割は歩きました。もうちょっとだ!
焼米ヶ原手前から見える筑後平野。すっごい爽快。築城当時は土塁上に樹がなくて全周こんな景色だったのかもしれません。
2時間半で焼米ヶ原に帰還しました。
これで一周しましたが、最後にすぐ近くにある大宰府口城門の跡を見てみます。
駐車場から徒歩1分ほどで到着。土塁がパックリ割れているけどこれかな?
あ~これっぽいですね。先ほど見た水城口城門よりも立派な印象です。
ここにも門のすぐ横の谷に石垣があります。
ここもやっぱり谷を石垣で埋めてます。戦国時代の城なら天然の谷は堀として利用されるので、埋めちゃってるのはかなり勿体無く感じます。
やっぱり大野城は古代日本の国家事業=公務員のお仕事なので合理的じゃない所も多く見られます。急斜面に土塁作ったり、そもそも城が広すぎたり。石垣で谷を埋めているのもそう。
大野城も折角作ったのに100年もしたら使われなくなっています。こういう所は現代と同じですね。
感想
水城も大野城も、1300年前とは思えないほど良好に遺構が残っています。東日本に住んでいると中々こういう古代遺跡に触れることは無いので新鮮でした。
また、一直線の水城や斜面沿いに聳える大野城の石垣など、戦国時代の城とはまるで違う思想で作られた構造物も魅力的です。本当の意味で時代が違う事を痛感しますし、糸口に城と言っても色々な種類があるという事を改めて認識しました。
時間が無いなら水城だけでも見て欲しいですねぇ。見た目はただの土盛りですが、1300年前を想像するとまた違う景色が見えるでしょう。