転がる五円玉 ~旅と城と山~

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首里城 ~壮大な石垣を誇る琉球最大の城~

歴史

首里城は沖縄県那覇市にある琉球王国国王の居城である。

創建時期は明らかではないが、琉球が荒れた三山時代に他のグスクと共に築かれたとされる。

1429年に尚巴志王が琉球を統一し、琉球王国を打ち立てる。首里城も琉球の中心地として栄えた。江戸時代にかけて幾度か火災に見舞われたがそのたびに再建されている。

明治維新から暫くたっても琉球王国は存続していたが、1872年に明治政府直轄地として琉球藩を設置(藩主は尚氏)された。そして遂に1879年3月12日、最後の国王・尚泰は明治政府からの圧力を受けて城を退去。同4月4日に琉球藩の廃止と沖縄県の設置が布告され、450年に渡って存続した琉球王国は滅亡した。

滅亡後の首里城は小学校の敷地になるなどして次第に荒廃していく。正殿などの建築物は倒壊の恐れありとして撤去も考えられていたが、東京帝国大学の伊東忠太らの尽力で保存が決定された。昭和に入ると旧国宝にも指定された。

太平洋戦争中は首里城の地下に陸軍第32軍総司令部が設置される。このため、米軍の主要な攻撃目標となり、地形が変わるほどの猛烈な艦砲射撃を受け正殿や石垣もろとも城の大半が消失した。

戦後は長らく琉球大学の敷地として利用された。下の写真は琉球大学時代の航空写真である(国土地理院空中写真閲覧サービスより)。

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1958年に守礼門が復元、日本に復帰した1972年に国史跡に指定、1974年には歓会門が復元された。その後徐々に復元への機運が高まり、1979年に琉球大学が移転されると復元工事が本格化。1993年、遂に首里城正殿が48年ぶりに復活した。2000年には世界遺産にも指定される。

しかし、2019年に失火により正殿が焼失。目下再建の途上にある。

 

概要

首里城のことを調べていて一番驚いたのが、石垣まで殆ど再建されたものという点ですね。天守閣などの建物の再建は全国で見られますが、石垣をここまで大規模に再建した例は見たことがありません。

例えば、下の写真ですと上の方はカッチリ積まれていますが、下の方は草ボーボーです。この下の部分がオリジナルの石垣で、上の方は全て再建です。

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ザッと見た感じ、石垣の99%くらいは再建なんじゃないでしょうか。

再建時には城内に生えている木すら分からず、土を掘り起こして出てきた根っこから木を判定したそうです。

岐阜女子大学沖縄サテライト校

 沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ

これを聞いて「殆ど再建なんて本物の城として認めらんねぇよ」と思う人もいるでしょうが、それはいささか早計でしょう。幸いな事に、米軍が侵攻前に詳細な航空写真を撮影しているため昔の石垣の位置はほぼ正確に分かっています。また、建物の基礎も土中に残されており、正殿の位置は昔と変わっていません。これなら本物の城と言っても良いと個人的には思います。あと50年も経てば風格も出るだろうし。

 

・・・とはいえ、建物の復元ではかなり議論があったのは事実のようです。特に問題になったのは正殿の屋根瓦の色。黒か?赤か?で相当モメたようです。写真は白黒だし、古老に話を聞いても「赤だった」「いや、黒だった」とこれまたモメたらしい。

ちなみに当時の写真がこちら。

・・・赤くないですねぇ。屋根も壁も。ただ、壁については経年劣化で剝がれたと説明がつきます。

屋根についてはかなり微妙な感じですが、下記の論文では、「黒瓦と赤瓦が混在していた」と推測しています。

首里城正殿の屋根変遷 石井龍太

https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-18801536-1606.pdf

どうしてこうなったかと言うと、1945年焼失の正殿は1722年の建築でありその当時は黒瓦が主流であった。しかし、18世紀半ば以降になると徐々に赤瓦が主流になり、正殿も修理箇所に赤瓦が用いられるようになって、黒瓦と赤瓦が混在するようになった、とのことです。

この辺の大雑把な内容は以下ブログに大体解説されています。

daishi100.cocolog-nifty.com

 

ちょっと長くなりましたが、今回はそんな首里城に行ってきました。

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ゆいレールで那覇空港から首里駅に到着。10分ほど歩くと小高い丘になっている首里城に到着です。5月頭だと言うのに死ぬほど蒸し暑くて既に汗ダラダラ。沖縄の城を巡るなら冬に限りますね……。

 

早速城壁が見えてきました。緩やかにカーブを描いており、武骨さよりは優美さを感じます。

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それにしても長い。地図で見ると300mほど続いており、大大名の居城に匹敵します。流石は琉球王国の首府、と言ったところでしょうか。

気になったのが、石垣に綺麗な箇所と雑草が生えた汚い箇所がある点。

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この時は知らなかったのですが、上記の通り汚い箇所がオリジナルの石垣で、綺麗な箇所は近年の復元です。

表面が荒れていますが、切り込みハギの美しい布積みです。この荒れは戦争のせいなのか、それとも石灰岩がもろいからなのかな?



城壁の下を歩いて城の西側にある守礼門まで来ました。

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1958年復元の首里城で最も古い建築物です。中華王朝の使者が琉球にやってきた時は、国王がこの門まで来て三跪九叩頭の礼をとって出迎えていました。

まぁ正直言ってあんまりすごい建築ではありません。通常の城と違って、儀礼的役割を担った門なので重厚感が無いのです。

 

守礼門から城に向かって進むと歓会門に着きます。

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首里城の正門ですが、ここも建築はしょぼい。一方で石垣は非常に立派です。隙間なく積まれた石垣は見るものを圧倒します。

 

歓会門を超えると二の丸に入り、本丸への門である瑞泉門が見えます。

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歓会門は石のアーチだったのに対して、こちらは門が石垣の上に渡されています。

瑞泉門の右手前にある湧き水「龍樋」。首里城の水はここから汲んでいました。

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龍の彫刻は1523年に中国よりもたらされたものです。確かに、周りの石垣は復元ではなくオリジナルなので古い事は分かります。

 

瑞泉門を通ると、枡形のような狭い空間に出ます。ここは明らかに防御を意識しており首里城の中でも特に戦闘要塞っぽい所でした。正面に見えるのは漏刻門です。

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ここの石垣からは左奥の歓会門と右の久慶門が見えます。久慶門は女性専用の通用門だったとのこと。でも、正門である歓会門と全く同じ形式ですね。格式は同じだったのかな。

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漏刻門を通るといよいよ本丸です。まずは、広福門を通ります。

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この建築は役所の建物に門の機能を持たせた、建物付帯型門という形式です。そのためか、窓も無い非常に不愛想な外観になっています。

ここを超えると次は奉神門。ここまで門ばっかりでしたが、ここが最後のようです。

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奉神門でチケット代を払い門をくぐるとそこには……

土嚢がありました。

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記憶している人も多いかと思われますが、2019年に火災で首里城正殿と付属の建物は焼失しています。

www.nikkansports.com

ニュースを見た時はかなり驚きましたが、あり得ない事ではないなぁというのが率直な感想です。そもそも木造の城郭建築は落雷や火災の飛び火でしょっちゅう炎上していましたし、首里城も例外ではありません。

むしろ、問題なのは瓦の原材料や木材の調達が難しくなっている点でしょう。もう一度再建したとして、再び火災に遭わない保証はありません。永続的に城の再建ができるような木材の調達方法が求められるのではないでしょうか。

 

それはそうと、現在は正殿跡地にて残骸が展示されています。

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いや~しかし火災ってのは本当に悲惨なものです。あれだけ立派だった正殿が瓦礫の山とは……。

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ここを見てる時に感じたのですが、城を復元する際にはオリジナルの礎石などは移転・もしくは埋められる事が多いのは火災から守るためだったんですね。この首里城正殿もオリジナルの遺構は土中にあって無事だったようです。

 

正殿跡を抜けて東のアザナ(物見台)に行きます。

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白銀門です。とうとう屋根まで石造りになりました。白っぽいから白銀門?なのかな。

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城内の最高所である東のアザナに到着です。

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流石に眺めが良い。

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タワマンが立ち並ぶ那覇市街地も一望できます。

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東には海の向こうに久高島が見えます。久高島は琉球神話の創生神アマミキヨが降り立った琉球最高の聖地とされています。

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東のアザナを降りて城を出ます。それにしてもこの辺は石垣が整いすぎているような気もしますね笑。

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淑順門より本丸を退出。有料エリアはここまででした。

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左の本丸の下にある二の丸エリアです。奥が最初に通った歓会門。狭くはないのですが平地が少なく兵士はあまり駐留できなさそう。

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久慶門より退出。ここの門は階段がとにかく立派です。

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二の丸の石垣。やっぱりこの城は建物よりも石垣ですね。緩やかにカーブを描く石垣が連なっている様子はやはり凄い。

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最後に首里駅ホームから首里城全景。天守閣のような高い建物が無いのでちょっと分かりにくい。でも、高台に沿って石垣が続いている様子は分かります。

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感想

建築より石垣の城という印象です。門の殆どは単層で規模は城と思えないほど小さいですし、戦闘に利用できる建築物は殆どありません。

一方で石垣は素晴らしい。10m近い高石垣が丘を二重に囲んでいる様子は日本有数の大城郭そのものです。惜しいのはこの石垣の殆どが復元という点でしょうか。全体的にいささか整いすぎており、城というよりは城風テーマパークのような雰囲気もあります。

沖縄を代表するスポットではありますが、姫路城のような分かりやすいビジュアルではなく、石垣を主軸とする意外にも渋い城でした。

 

おまけ

城と言えば城下町ですが、沖縄戦で城もろとも吹っ飛んでおり古い屋敷などは殆ど残っていません。

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唯一の残存遺構と言っていいのがこの円覚寺です。門は復元ですが、池にかかる放生橋は1498年に中国で作られた由緒正しいものです。どうやらこの円覚寺も復元する計画があるらしい。

でもこういう復元された寺は檀家とかいないですよね。建築だけ復元ってのはどうなんてしょうか。

 

おわり