山中城 ~北条流築城術の全てをつぎ込んだ悲劇の城~
歴史
山中城は静岡県三島市にある北条氏の城である。
永禄年間(1558~1570)くらいに北条氏康によって箱根西方の重要拠点として築城された。
この頃の北条氏は最盛期で山中城では特に戦闘も起きなかったが、その平穏は突如として破られた。豊臣秀吉による小田原征伐である。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉は20万人とも呼ばれる大軍勢で北条領に侵入。東海道を抑える位置にある山中城は真っ先に襲われた。豊臣軍7万に対して4000人で守ろうとしたものの、わずか半日で落城。
小田原城落城後は廃城となった。1930年に国指定史跡となり今に至る。
概要
という訳で、この城は秀吉の小田原征伐と関連の深い城でもあります。
この山中城攻城戦で興味深いのが秀吉にしては珍しく猛烈な速攻を決めましたが、これには以下の理由があったかと思います。
①精神的ダメージを期待した
「 山中城は北条流築城術をこれでもかと盛り込んだ大城郭で、4000の兵も守っているのでそう簡単には陥落しない」と北条方は踏んでいたと思われます。ところがどっこい、それがわずか半日で落城したのです。これは辛い。
ちなみに攻城戦の前に守将の北条氏勝が小田原に援軍を求めているのですが、あっさり無視されています。小田原は4000で十分だと思ったのか?それとも最初から捨て石にするつもりだったのか??でも、捨て石にするには4000人は多すぎるよなぁ。いまいち真意が読めない所です。
②兵糧が心配だった
豊臣軍は大軍なので兵糧の心配は常にあります。それこそ数日の遅れでも致命傷になるくらいに。
東海道の途上にある山中城はさっさと通過して、小田原城をじっくり腰を据えて包囲する方針だったと思われます。小田原の方が海上からの輸送もできますしね。
③豊臣秀次が戦功を焦った
秀次は次期関白と目されていたものの、実績が足りない状況でした。そんな折に山中城攻めの大将を任されたので、張り切らない訳がありません。「ここでやってやる!」という信念で城を猛烈に攻め立てたのでしょう。
秀吉はおそらく秀次のこうした心情を理解した上で山中城攻めに任命したのだと思います。成功すれば秀次には「あの山中城をわずか半日で落城させた!!」という箔もつきますしね。
縄張
監修(かんしゅう):加藤理文 イラスト:香川元太郎、出展:『大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド』加藤理文・監修(学研プラス刊)
見ての通り、本丸と岱崎出丸で東海道を左右から抑える構造です。下からの攻撃を守るのが大きな目的なので、下に対しては二重堀や障子堀、水堀まで駆使してかなりの重防備。それに対して上は堀があるのみで防御は薄くなっています。
細かい技巧がこれでもかと盛り込まれている縄張はまさに北条氏の城という感じですね。
今回はそんな山中城に2月上旬に行ってきました。
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箱根から国道1号を下って駐車場に到着。国道1号を境にして北側に本丸や二の丸が、南に岱崎出丸があります。東海道を抑える縄張がこの時点でよく分かりますね。
旧東海道も残されています。左上が岱崎出丸。
ではまずは岱崎出丸へ。これだけ見ると普通の公園っぽいですね。
芝生の広場をテクテク歩いているとまず目に入るのが馬場曲輪の堀。
これは中々すごい。かなり急峻で落ちたらまず登れません。でも幅は狭いので梯子をかけたら渡れそうではあります。
岱崎出丸の外側には障子堀がズラりと並んでいます。かなり壮観で、この城の見どころの一つ。でも、この障子堀から敵兵が登ってこれるのではないのかなぁ。
ここは眺めが良く愛鷹山が良く見えます。富士山は雲の中なのが残念。
岱崎出丸全景。傾斜があって段々になっている構造です。面積的には本丸・二の丸を合わせたくらいはあります。北条方の間宮康俊はここを300人で守ったようですが、流石に足りなさすぎるのでは……。
岱崎出丸の先っぽにはすり鉢という謎の区画があります。秀吉の到来合わせて工事されたものの間に合わなかったらしいので、もしかしたら削平されて曲輪の一つにする予定だったかもしれません。
岱崎出丸はサクッと見たので次は本丸に向かいましょう。
まずいきなり見えるのが三の丸の堀。一見すると左が三の丸のようですが、実は右です。
二の丸と三の丸の間にある田尻池。池というか沼?谷底なのでジメジメした雰囲気。
二の丸に登るスロープ。どういう所にも土塁がきっちり整備されていますね。
右に行くと二の丸で、左に行くと西の丸。しっかりと虎口が形成されています。
二の丸です。ここも傾斜があるので曲輪内に建物があったかどうかは怪しい。
二の丸からは元西櫓とその奥に西の丸が見えます。土塁が急峻で素晴らしい。お手本のように曲輪が並んでいます。
二の丸から見た本丸の土塁です。高さは3mほどあり、流石は本丸と言った感じ。
本丸と二の丸の間には障子堀が広がっています。
おお~確かにこれは凄い。こんな堀は見たことがありません。
障子堀の目的は細い通路を歩く敵兵を狙い撃ちにすることと言われています。ただ……それは小勢に対しては有効であって、豊臣軍のような超大軍に対しては逆効果だったのではないでしょうか。
技巧を凝らしすぎて逆に不利になっているような気もしますね。
本丸の広さはさほどではなく、ここも段々になっています。
本丸の北にあるのが北の丸。
ここの堀にも障子堀があったようですが、整備されていないのでよく分かりません。
橋を渡って振り返ると、本丸にある天守台が見えます。まぁ実際に天守閣があったかはともかく、それに類する大きい櫓はあったのでしょう。
北の丸です。本丸より広いかもしれません。周りが木で囲まれていてなんだか陰気な感じ。
北の丸と二の丸(左上)の堀にはわずかながら障子堀の遺構が見られます。堀底がわずかに凸凹しているのが分かるでしょうか?
二の丸の北を通って西の丸に到着。ほぼ正方形で広々としています。
二の丸から見た元西櫓(手前)と二の丸(奥)。美しい。お手本のように曲輪が並んでいます。元西櫓という名称という事は、この西の丸も増築部分かもしれませんね。
西の丸から見た西櫓(角馬出)。橋で結ばれていたようですが、今は直接行けないので周り込みます。
西の丸の西斜面が盛大に崩れています。台風19号の被害らしい。
西櫓と西の丸の間にある見事な障子堀。
ここにも障子堀。
西櫓の先まで周るとさらに凄い障子堀があります。ガイドブックなどに写真が載っているのはここですね。正直言ってかなり圧巻です。堀の上を歩きたいけど我慢我慢。
西櫓(角馬出)です。ここは狭い。10m四方くらいの広さです。
言われてみれば曲輪の名前で「西櫓」ってのもおかしな話だなぁ、と思っていたら看板には角馬出と書いてありました。入口の看板には西櫓とあったのに……どっちやねん!
これでおおよそ周ったので山中城観光は終了。
帰り際になって晴れてきました。本当は駿河湾や富士山も見えるはずなのですが、曇りで殆ど見えず!芝生が美しいらしいので夏場に訪れてもいいかもしれません。
感想
山中城は全体的に見ても技巧が凝らされているばかりではなく、堀は深いし土塁は高いしで中世の山城としてはかなり強固な部類だと思います。しかし、しかし、それはあくまで一大名に対しては強力というだけで、西日本を全て制圧した豊臣軍の大軍の前には無力だった。
山中城攻城戦の終盤には敵味方が雪崩のように堀に落ちていったとか、次々に攻め寄せる兵士によって櫓が倒壊したとか、信じられない描写があります。1万人くらいの兵力だったら落とすのは至難の業のでしょうが……。
東海道を左右から抑える戦略上の発想は間違っていなかったと思います。まぁ、ここも時代の荒波に呑まれた悲劇の城、という事でしょう。
おわり