転がる五円玉 ~旅と城と山~

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躑躅ヶ崎館 ~館が滅ぶとき、武田も滅ぶ~

 躑躅ヶ崎館は甲府市の北にある城(館)です。

世間的には武田氏館という名前のほうが知られているでしょう。その名の通り、武田信虎・信玄・勝頼の3代に渡って武田氏の中心拠点でした。

そもそも甲斐武田氏の歴史はものすごく古く、初代武田信義は一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いにも参加いるほどです。血統という点では織田・徳川・毛利らを遙かに凌駕すると言っても過言ではありません。

武田氏は鎌倉・室町と栄枯盛衰はありましたが甲斐国の守護として存続し、第18代武田信虎の時代に甲斐を統一して戦国大名として名を挙げました。躑躅ヶ崎館が造営されたのはまさにこの時代(1519年)です。

信虎の息子、武田信玄の時代には甲斐・信濃・駿河と言った広大な領地を得て日本有数の大大名に成長します。上杉謙信とは川中島で何度も激戦を繰り広げたことは有名ですが、一方で北条氏とは甲相同盟を結び外交的にも安定していました。

信玄の跡を継いだ武田勝頼は順調に領地を拡大するものの、1575年の長篠の戦いにおいて織田徳川軍に手痛い敗戦を喫します。さらに、上杉謙信亡き後の上杉家で発生した御館の乱において、勝頼は上杉景虎(北条氏康の息子)ではなく上杉景勝を支援しました。これにより北条氏との同盟も破綻してしまい、結果的に武田氏は織田・徳川・北条に領地の3方を囲まれる状況になってしまいます(頼みの綱の上杉家は御館の乱のせいでかなり弱体化してしまった)。

まさに四面楚歌ならぬ三面楚歌な状況の中、勝頼は防御力に乏しい躑躅ヶ崎館を捨てて堅固な立地の新府城への移転を画策します。1581年年末、一応の完成をみた新府城に勝頼は入城しました(ちなみに、新府城の普請奉行は真田昌幸だったりする)。この際に移転に反対する家臣を押し切るために躑躅ヶ崎館の御殿等は徹底的に破壊したようです。

しかし、新府城に移転したわずか3か月後、1582年初頭には織田軍が信濃を落として甲斐に侵攻してきました。未完成の新府城では支えきれないと判断した勝頼は家臣の小山田信茂の意見を採用して大月へと逃亡します。ところが、その小山田氏にも裏切られて遂に1582年3月、天目山にて自害しました。こうして平安時代より続いた源氏の名家である武田氏は滅亡したのです。新府城移転のわずか4か月後のことでした。

主を失った躑躅ヶ崎館は甲斐を領地とした織田家家臣である川尻秀隆の居城となります。

本能寺の変後は甲斐を支配した徳川家によって領地支配の拠点となり、城域の拡張や天守閣も造営されたようです。

その後、徳川家から浅野家に甲斐領主が移ってから1590年に甲府城が建設されます。甲斐支配の機能はそちらに移り、躑躅ヶ崎館は廃城となりました。

江戸時代を通じては古城と呼ばれ、旅行者には武田氏の館と認知されていたようです。ただ特に保存などはされておらず基本的に竹藪だったらしい。

明治時代になってから信玄を祀った神社の創建運動が活発になり、1919年に武田神社の社殿が完成。現在でも躑躅ヶ崎館は武田神社の敷地となっています。

 

「館」の名の通り、城というよりはむしろ館といった感じです。武田神社所蔵の信玄公館絵図を見る限り、信玄時代は本当にただの方形館だったのではないでしょうか。

その後、勝頼や徳川家時代を経て大幅に拡張されたようです。ま、確かにそう言われてみれば本郭を中心に徐々に拡張された様子が縄張からもなんとなく推測できます。

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それにしてもこの館を本拠地にするとは相当に大胆な選択です。北条の小田原城・上杉の春日山城と比べても破格にしょぼい……というかシンプル。信玄は領国に敵を引き込んで消耗戦に引き込むつもりなどサラサラ無く、占領地に築いた城で領地を防衛するつもりだったのでしょう。確かにそれなら本拠地は戦闘要塞ではなく政庁としての機能があれば事足ります。

しかし、勝頼の時代にこのプランは破綻しました。北条との同盟が消滅して守るべき戦線が限界まで伸びきってしまったのです。個人的には勝頼一番の失敗は長篠の敗戦ではなく、御館の乱で上杉景虎(北条氏康の息子)ではなく上杉景勝を支援して甲相同盟が消滅した点だと思います。もしかしたら北条に上下挟まれることを警戒したのかもしれませんが、織田を前にして北条と手を切ったのは痛すぎた。

甲斐に織田が攻めてくるかも、というタイミングで慌てて新府城に移転した時点で武田氏の凋落は決定的だったのでしょう……。

 

今回は甲府城を訪れた後に躑躅ヶ崎館を訪れてみました。

 

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はい、武田神社です。言わずと知れた観光地でこの日も観光客が大勢いました(緊急事態宣言とは一体……)。

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一見すると大手門のようにも見えますが、この入口は明治の改変で本来の大手門は東側にあります。

ちなみに城の縄張を見る限り平坦地だと思われがちですが、実際は自転車だとキツい程度の傾斜地です。

 

まず訪れたのは城の南西にある梅翁曲輪。おそらくは徳川時代の拡張です。

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住宅地に土塁と堀が残されています。

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思ったよりも堀が広い。一見すると復元のようですが、現存遺構です。最近までため池として使われていたらしい。

 

ぐるりと回って館の東側にある大手曲輪にやってきました。

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この辺は畑になっていた場所で堀や土塁は復元です。丸馬出の遺構が発掘されたようですが、今は土の中。

 

東に面している大手門です。土塁がデカい。

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そして堀も深い!!本当に館かと疑うような超大規模な空堀です。

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本曲輪は武田神社境内となっています。

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本曲輪から西曲輪への虎口。枡形などは特にありません。

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本曲輪と西曲輪の間は南側が水堀となっています。

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西曲輪は神社境内ですが、残土が置かれていたりと雑然とした印象。国指定史跡なんだからもうちょっと管理してもいいのでは。

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この西曲輪からは本曲輪の天守台が見えます。ここも高さ深さが大迫力。石垣らしき石も若干見えますが、往時はどういう感じだったのでしょうか。

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西曲輪の北門はご覧の通り枡形虎口となっています。よく見るとこの枡形虎口は松代城の太鼓門とそっくりですね。両方とも武田氏の城なので似ているのかも。

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西曲輪の北にある味噌曲輪。名前が面白い。ここからのアングルだと城が傾斜地に立地していることがよく分かります。

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絶賛発掘中の様子。この辺にも馬出があったようなので是非とも復元して欲しい所。

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味噌曲輪南東には割と大き目な櫓台が残されています。二重櫓くらあってもおかしくない規模感。

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味噌曲輪の土塁から無明曲輪を眺めます。手前の溝はおそらく堀跡でしょう。

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畑として利用されていたためか本曲輪よりはかなり浅い堀です。所々に石積みが残っていますが後世のものかも?

 

本曲輪の北には橋が架かっていたようですが今では全く分かりません。本曲輪の北側は武田神社の敷地で立ち入り禁止なんですよね~。このため天守台も内側から登るのは不可能です。

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この橋にも馬出があったようです。もしかしたらこれがその堀跡かもしれません。非常に浅く何とも微妙な感じ。

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西曲輪に戻る途中で西曲輪の土塁を眺めていると石垣が若干残っている事が分かりました。あまりにも微妙で当時の遺構とは考えにくい……いやいや、もしかしたら徳川時代のものかもしません。

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西曲輪の南虎口です。ここも桝形虎口になっています。

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西曲輪の南から眺める水堀。そういえばこの館は北側が空堀で南側が水堀になっています。傾斜地に立地しているからでしょう。

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西曲輪西側の水堀。とにかく幅が広く立派です。

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これでおおよそ一周したので見学は終わりとしました。

 

来る前は「しょせんは館だろ?」と思っていたのですが、水堀・空堀・土塁、どれを取っても超ド級です。中世の館とはとうてい思えないほど深く高い。しかも館にしては面積も非常に広くて正直驚きました。そこらの中世城郭を遥かに凌駕しています。

一方で、北条氏の小田原城や上杉氏の春日山城と比べるとちょっと劣るなぁ、という感じ。まぁ所詮は館なんですよね。大手門の構造も単純ですし、本丸が直接外と接しているのも城としては弱い。

とはいえあの武田信玄の居館なので今後も多くの観光客が訪れるものだと思います。建物の復元などは難しいかもしれませんが、発掘調査を続けて日本百名城としての魅力も高めてほしいと思います。

 

おわり