転がる五円玉 ~旅と城と山~

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原城 ~特徴がありすぎる島原の乱の舞台~

歴史

原城は島原半島にある城である。

1496年に日野江城を居城とする有馬氏の支城として築かれた。

1616年に松倉重政が島原城を建設したのに伴い、日野江城と共に廃城となる。

1637年、島原の乱が勃発。一揆勢37000人が原城に集結し、攻城戦の舞台となる。包囲の末、翌年1638年に原城は陥落。幕府は城が再び一揆に利用されないよう石垣等を破壊した。

その後、原城の敷地は畑などに利用されたようである。

1990年に発掘調査が開始され、大量の人骨・ロザリオ・崩された石垣などが発見された。

2018年には世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産となった。

 

概要

原城といえば島原の乱ですが、それはさておき縄張もすごく特徴的で面白い城です。

まず特筆したいのが本丸の虎口。wikipediaにも国内最大級とある通り、見たことも無いほど広大な虎口を形成しています。

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現地案内板より

非常に実戦的な造りで大変興味深い。この虎口に限らず本丸の石垣は全体的に立派で、そこらの山城とはまるで規模が違います。


また、本丸から三の丸まで800m以上あり、城としてもかなり広大です。特に二の丸・三の丸は台地を非常に大胆に取り込んでおり、こちらも極めて実戦的な構造と言えるでしょう。

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上から大雑把に三の丸・二の丸・本丸です。広さが分かるでしょうか?

 

ここで問題になるのが、この城は誰が作ったかという事。1496年に築城はされていますが、当時はこんな立派ではなかったでしょう。

全体的に実戦的な造りなのを見ると、一揆勢が作ったと推測されますが、石垣を積むような時間的余裕があったか疑問が残ります。一揆の勃発が10月25日で、原城に籠城し幕府軍との戦闘が開始されたのが12月10日なので一か月ほどしかありません。これだと木柵の設置や食料の積み込みで精一杯だったんじゃないでしょうか。

そうなると、転封前の有馬氏が候補に挙がります。有馬氏の居城・日野江城は内陸の高台にあり、典型的な中世城郭です。交易に不便なので海沿いの原城に移転しようとしていたが、移転前に転封になってしまった……という流れ。個人的にはしっくり来るのですが、いかがでしょう。

 

それにしても、この島原の乱はとにかく規模感がすごい。籠城側37000人に対して幕府軍12万です(ちなみに大坂夏の陣は豊臣55000人対幕府165000人)。この片田舎でこんな大規模な戦闘が行われていたなんてとても想像できません。

それに一揆勢が強いのなんの。農民の一揆といえばクワや鋤で武装するイメージですが、この時の一揆勢には小西家や有馬家の浪人がかなり混ざっていたらしく、鉄砲や大砲を駆使した集団戦闘夜襲を定期的にしていたそうです。しかもこれらの浪人は大体朝鮮出兵に従軍しているので戦闘スキルも非常に高かったらしい。このせいで幕府軍にも8000人の死者が出て、最初の総大将板倉重昌は戦死しています。

そして陥落してからは一揆勢皆殺し。日本では類を見ない大虐殺事件です。乱には周辺のほぼ全員が参加したため、乱後の南島原はほぼ無人の荒野となったようです。

幕府は1万石に1戸の割り当てで移住命令を出してなんとか復興しました。

 

前置きが少々長くなりましたが、今回は島原城を訪れた後に原城に行ってみました。

 

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島原城から雲仙岳を横目に車を走らせること40分。

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原城跡近くに駐車場に到着しました。かつては本丸付近に駐車場があったようですが、現在は500mほど離れた三の丸付近に駐車場があります。

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左に三の丸・右に二の丸を見ながら農道を歩いて城に向かいます。

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奥の台地が二の丸です。こうして見ると城というか、自然地形をそのまま利用している感じですね。

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二の丸と三の丸の間には板倉重昌討死碑があります。板倉重昌は2幕府軍の最初の総大将ですが、攻めあぐねてしまい代わりの総大将が派遣される事を聞いて慌てて総攻撃を仕掛けて戦死した人です。

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まぁ「板倉じゃ無理だったから替えよう」となって本人は相当焦った事でしょう。本人としても「総大将を降ろされた小役人」ではなく「名誉の戦死を遂げた勇将」という評価がついたので良かったのかもしれない。

 

ここから二の丸に向かって歩いてきます。

二の丸の真ん中で三の丸方面を振り返ります。

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この二の丸が本当に広い。土塁や石垣のような城っぽい設備はありませんが、広さだけで言ったら一流の近世城郭です。島原城より広いんじゃないか?

 

それにしても実にのどかですねぇ……。ここで400年前に数万人が虐殺されたなど想像もできません。

 

二の丸は自然地形なのでこのような谷もあります。奥が二の丸(出丸)、手前が二の丸(西)です。ややこしい。

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この二の丸はあくまで自然地形でしょうけど、崖は10mくらいの高さがあり結構高いです。人海戦術でここを守ったら相当攻めにくいと思います(実際幕府は攻めあぐねている)。なお、乱の当時は土塀があったようです。

 

そんな訳でだだっ広い二の丸を横断してようやく本丸近くまで来ました。本丸は比高10mくらいの丘になっています。

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二の丸と本丸の間にはこのような堀があります。f:id:harimayatokubei:20210516125637j:plain

一見自然地形っぽいですが、人工かもしれません。というのも、周囲の谷より明らかに浅いのです。本丸の防御を高める為に一揆軍が掘ったと考えるのが自然ではないでしょうか。

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↑ 上の図の中央、黄緑色の部分が堀です。

 

 

いざ本丸へ突撃。

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お、おお~。門跡が噂にたがわずものすごく広い。

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以下は現地案内板にあったレーザー測量図です。右下にコの字形の枡形門があるのが分かります。とにかく広く大きい。このような枡形門は見たことがありません。

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極めて実戦的です。本丸で台地と唯一地続きである北側を大型枡形門でガッチリ守っています。

 

この門の石垣は島原の乱後に破壊されました。今では原型を留めていませんが、石の大きさからして昔は5mくらいの高さはあったかもしれません。

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この枡形門を通ると、更に小さな枡形門を通って本丸に着きます。下の写真が門の礎石ですね。こちらは石垣も低いですし防御性は高くありません。

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50m四方くらいの本丸の南側には天守台らしき出っ張りがあります。

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上からだとよく分からないので下から撮影。こっちも石垣は半分くらい破壊されてますが、大きさからしても三重天守くらいはあってもおかしくない。

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実際、発掘調査では瓦も出土しています。と、いう事は島原の乱の際にはここに天守閣に類する建築物があったのでしょう。

 

この辺りは石垣が特に立派です。一揆軍が急ごしらえで作ったとはとても思えません。

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この石垣を見て、やはり上で書いたようにこの城は有馬氏が築城したとの思いが強くなりました。

有馬氏が城を築きつつも途中で日向に移転、残された城は荒れつつも残り、それを一揆軍が利用した……こういう想像をすると、当時の様子がおぼろげながら浮かんでくるようです。

 

今の本丸には東屋の他にロザリオが悄然と立っています。

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その足元には天草四郎の墓がありました。

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その墓の裏から眺める有明海。あの海にオランダの船が浮かんで原城を攻撃していたんですねぇ。

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青い空が一揆勢の無念を表しているようです。 

 

本丸で見るべきはこのくらいなので、搦手である池尻口門から出ます。

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うーん、この辺りの石垣も素晴らしい!ここも一部しか残っていませんが、大変見事な打ち込みハギです。石は大きいし、面もキッチリ揃っています。

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正直言って島原城よりも技術力は高いと思います。まぁ高さはあっちの方がありましたが。

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本丸の脇を通って門のあたりまで戻ってきました。ここの石垣は角が破壊されています。

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これにて原城の見学は終了!城としてもよかったし、景色もよかったなぁ~。

という風にホンワカした雰囲気だったのですが、この後島原の乱の悲惨さを別の場所で体感する事になったのです……。

 

それは有馬キリシタン遺産記念館。

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ここには原城の発掘状況がそのまま展示してあります。

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!!

ガ、ガイコツ……。どうやら原城を発掘したところ、崩された石垣と共にこれでもかと人骨が出土したらしいのです。

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しゃれこうべがなんとも実に無念そうではないですか。私が歩いた原城の下にもまだまだ埋まっているのでしょう。南無阿弥陀仏。いや、アーメンか。

虐殺を文字で知るのと、ガイコツを実際に見るのとでは全然違います。島原の乱で日本史上類を見ないジェノサイドがあったというのも納得できました。

 

感想

原城はその歴史も特徴的ながら、城としても面白い点が多かったです。

まずは海沿いの台地を大胆に取り込んでいる点。端から端まで800m近くもあり本当に広かった。仮に原城が江戸時代に島原藩の居城となっていたら、本丸だけを城にして、二の丸・三の丸には城下町になっていたのではないでしょうか。それくらいの広さがありました。

また、本丸の超大型枡形門も面白い。というかこれは国内でもここだけの特徴です。本丸のほぼ半分を枡形門にするとは。これも常識から外れた非常に大胆な縄張です。

総じて非常に実戦的な城でした。近世城郭を政庁としてではなく、戦闘要塞として進化させた最終形態の城と言えるかもしれません。

城好きなら一度は訪れて良いと思います。戦国時代から続いた戦乱のフィナーレを飾った島原の乱、その舞台となった城を是非見てみて下さい。