転がる五円玉 ~旅と城と山~

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石垣山一夜城 ~秀吉の大戦略が光る城~

小田原市にある石垣山一夜城は北条氏攻略のために豊臣秀吉が築いた城です。

この城は構造とかうんぬん以前に、その歴史がよく知られています。

歴史

天生18年3月1日、豊臣秀吉は一向に臣従しない小田原の北条氏に業を煮やし、ついに征伐に乗り出しました。秀吉軍は総数20万。北条方は山中城・韮山城といった支城で抑えようとしたものの、山中城はわずか半日で落城します。

4月1日、秀吉は箱根に到着し、小田原を見下ろす地に巨大な陣城(戦闘の臨時的な城)を築くよう命じます。この城はみるみる建設され、6月26日に完成。築城の様子は木々で隠して、完成直後一斉に木々を切り倒してまるで一夜で完成したように見えたことから、石垣山一夜城と後世呼ばれるようになりました。

短期間で巨大な城が完成したことに驚愕した北条方は完全に戦意を喪失。7月5日、当主北条氏直は秀吉に降伏した……。

 

という秀吉版城作りRTAの歴史は知っているけれど、いうて山の中にある城だし大したことないんじゃないの~~??と、思っていました。

が、その認識は実際に訪れて覆りました。石垣が圧倒的に凄い。この城を2か月で作り、そしてわずか2週間足らずで放棄した秀吉の経済力はやはり半端ではないなぁ……とあたらめて感心したのでした。

 

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国道1号から10分ほど登って石垣山一夜城の駐車場に到着。f:id:harimayatokubei:20210204101041j:plain

駐車場が思ったよりも広くて驚き。

城好きが増えてくれて嬉しいなぁ、と思ったのですが、どうやらカフェの客のようです。

 

駐車場から既に南曲輪の石垣が見えています。

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崩れてはいますが、予想よりも遥かに壮大。

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石垣の高さ、石の大きさは30万石の大名居城クラスに匹敵するんじゃないでしょうか。いや、これは思ったより凄いぞ。

ここまで巨大な石垣だとは思っていませんでした。

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今の石垣は下の図でいうと左下にあたります。

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まず南曲輪に登った後、西曲輪→本丸→二の丸→井戸曲輪(右の窪んでいる所)と行ってみました。

 

駐車場から南曲輪への道です。ここも石垣が崩れたであろう岩がゴロゴロしています。

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名護屋城のような破城が行われたかのような崩壊っぷりですが、これらは全て関東大震災によるものだと思われます。小田原城にも結構な被害が出たように、石垣山城の石垣も崩れてしまったのでしょう。

 

南曲輪に到着。太平洋が良く見えます。

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登ってきた道です。くの字に曲がっている様子がよく分かりますね。私が立っている場所も若干盛り上がっているので櫓台だったかもしれません。

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次は西曲輪に行きます。下の写真の右手は本丸です。

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西曲輪に到着。右手が本丸で、バドミントンをしている人の後ろが天守台。

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この辺りの石垣は南曲輪より石が小さいですね。西曲輪自体が小田原城の反対側なのであまり手を加えていない様子。

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西曲輪から本丸の石垣をよじ登って本丸に入ります。

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本丸は100m×100mほどあり、結構広い。

その奥にあるのが天守台。今では単なる盛土のようで、とても天守が建っていたとは思えません。

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そしてこの本丸はとにかく眺めが良い。

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天守台と反対側にある展望台からは、小田原市街と湘南の海岸線が一望できます。

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小田原城もこの通り。手の届きそうな距離感。

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この近さにここまで巨大な城がいきなり完成したという事実は、北条氏にとって実に絶望感のある光景だった事は想像に難くありません。

 

確かに小田原城は籠城戦では非常に堅い城だったのは間違いありません。20万の兵に囲まれて3か月も籠城できる城は日本史上皆無です。

でも、ワンチャンあるかもしれない野戦と違って、籠城戦とは相手との経済力との戦いです。秀吉に経済力で勝負を挑んだのは……いくらなんでも情報収集が不足しすぎたのではないかと思います。北条氏は「秀吉を舐めていた」から滅んだと言っても過言ではないでしょう。

 

しかも、秀吉のさらに恐ろしい点は、この石垣山城は北条を相手にしていない点だと思います。そもそもいくら小田原城が堅いとはいえ、徳川・前田・細川・黒田……といった面々が遮二無二攻めれば数日で落城したと思われます。というか、兵站を考えると北条氏を滅ぼすだけならそっちの方が遥かに効率が良い。

しかし、それをしなかったのは石垣山城で関白の威勢を示して関東・東北の大名を一気に従えるためでしょう。実際に佐竹・最上・津軽・南部・伊達らが次々と臣従を求めて石垣山城を訪れてきました。

6月7日に最後の大物である伊達政宗が石垣山城で臣従を誓いました。6月26日に城が完成し、7月5日に小田原城落城、という流れは、関東・東北の平定を目論んだ石垣山城の目的をよく表していると思います。

素直に進軍したら1年~2年かかる東北平定を、わずか2か月で終わらせたあたりに秀吉の超人的なセンスが光った出来事です。

 

 

さて、それはともかく次は二の丸へ。

本丸と二の丸をつなぐ虎口です。本来なら立派な石垣が積まれていたのでしょうが、今では完全に崩壊しています。

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虎口から二の丸が見えます。広さは本丸と同じくらいですが、木が無いので広々した印象。

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この二の丸から眺める本丸の石垣もすごい。大半が崩れていますが、往時は実に豪勢だったと思います。

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二の丸の先には三の丸があるのですが、木々が生い茂っておりとても入れる雰囲気ではありません。

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ちなみにここからは谷を流れる早川と東海道が見えます。木が無かったら大涌谷方面まで見えたのかもしれません。

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下を見ると石がゴロゴロ落ちています。ここも総石垣だったんですね。

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二の丸と井戸曲輪の間にある櫓台。大きさからして二重櫓くらいはあった可能性あり。

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最後に見るのは井戸曲輪。曲輪といっても平坦地ではなく、井戸を囲った場所になっています。

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案内板によると、谷を2方向からせき止めて井戸にしたとのこと。うーん、井戸というよりダムに近い構造ですね。

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この井戸曲輪は石垣が特によく残存しています。野面積みが実に見事。

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さて、おおよそ見るべきものは見たので二の丸経由で駐車場に戻ります。

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左上が本丸で、中央が二の丸。結構な高石垣なので崩れてしまっているのが本当に勿体ない。

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駐車場まで戻ってきました。みかん畑の向こうに太平洋が良く見えて気持ちのいい場所。ここなら城に興味がない友人を連れてきても文句を言われる心配はないでしょう。

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石垣山城は梯郭式に曲輪が配置されており、構造自体はごく平凡なものです。しかし、石垣の壮大さはこの時代の関東ではとても考えられない規模のものです。それだけでも一見の価値あり。

秀吉が小田原を攻めている間はわずか数か月だけでしたが、その間は間違いなく石垣山城が日本の最前線でした。そうした歴史を学んで訪れると、より楽しい城だと思いました。

 

おわり