三原城 ~市街地に埋もれた城~
歴史
その起源は1567年に小早川隆景によって築かれたことに始まるが、築城当初は水軍の拠点程度のものであった。
本格的に拡張されたのは1580年以降のこと。小早川家が本拠地を三原城に移転したため、山陽道と瀬戸内海を掌握する一大拠点となった。この頃に三原城の縄張は完成したとみられる。
1600年以降は
広島から新幹線で三原まで来ました。
航空写真を見れば分かるのですが、かつての城の上にJRの三原駅が完全に横たわっています。そのせいで本丸は分断され、二の丸は駅前広場となり、その他の郭も市街地となって埋没してしまっています。
とはいえ、立派な天守台や市内の所々に石垣が残っているのも事実。今回はそんな三原城を2時間程度で歩いてみます。ルートは以下の通り。
早速ですが、新幹線のホームからは天守台が見えます。ものすごく立派で、大きさだけは姫路城や熊本城のような大城郭にも全くひけをとりません。
改札を出て駅のコンコースを通って天守台に登ります。
やはり広い。最早天守台というよりは1つの郭のような大きさです。
天守台に三原城の絵図の看板がありました。
陸側の防備が薄いような気がしますが、そもそも北には山があり、そこからの攻撃は想定していないようです。
駅を出てまずは天守台の東側へ出ます。すげぇ、石垣の中に通路がある。
駅から徒歩1分もかからず天守台のある堀端に出ました。
改めて見ると扇の勾配が非常に美しい。海に近く地盤が緩いので勾配も緩いのでしょう。
三原城の主な遺構はこの天守台くらいですが、細かい石垣が市街地各所に残存しています。縄張り図とGoogleMapを見比べてそれっぽい場所を回ってみます。
まず行ったのが天守台横にあるサーバス三原駅前というマンション。このマンションは堀跡に立っているため、駐車場の周りに石垣が残存していました。
完全にマンションの敷地内なので若干入りにくい雰囲気。
マンション横の明らかにクネクネした謎の溝もおそらく堀跡でしょう。
南に向かうと、鉄道の高架下に石垣が残っていました。
このように、街中にちょいちょい石垣が残っています。これは結構面白いですね。
高架をくぐった先には水堀が残っています。
でも、堀とはいえ底が見える程度には浅い。当時は海だったエリアなので、堀という表現も適切ではないかもしれません。
なお、写真の石垣の上には枡形門があったはずなのですが、跡形もありませんでした。
近くの県道55号線からは船入櫓の石垣がよく見えます。これは天守台意外では最大の石垣ですね。
昔は大規模な堀が横にはあり、南は瀬戸内海だったはずなのですが、今では1mにも満たない堀があるだけです。
こちらの面は完全に公園と同化しています。昔はこの公園も海の下でした。
本丸沿いに西へ歩きます。このあたりはだいたい道とかつての郭が一致しています。少し気になったのが、これ。
普通の雑居ビルの壁がやけに石垣っぽくなっています。しかも、位置は昔の石垣と完全一致。普通に考えてただの壁なのですが、違和感がすごい。要検証かもしれません。
三原国際ホテルの裏手に石垣が残っています。
高さはそれほどないので割と地味ですねぇ。おそらく、昔の三原城の石垣はほとんどこんな感じだったのでしょう。
高架を再びくぐって天守台の西広場まで出ます。
この日は三連休だったからかお祭りが開かれていました。この広場は昔武家屋敷が立ち並んでいたようです。
最後に天守台を見て終了!
広島城の支城という立ち位置だからか、割とこぢんまりと纏まっている印象の城です。ただし、天守台は例外。これだけは日本の名だたる名城にも引けをとらないインパクトがあります。
また、駅周辺に点在している石垣をちまちま発見するのが結構楽しいです。この城を訪れるなら是非ともネットで昔の縄張図を見つけてみて下さい。
おわり