転がる五円玉 ~旅と城と山~

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2019年2月イスタンブール旅行記:落日のビザンティン帝国と黄金のカーリエ博物館

カーリエ博物館 —ビザンティン文明の残照―

宮殿から壁沿いにしばらく歩くと急に観光客が増えてきました。少し歩くとカフェテラスの向こうに巨大な屋根と足場に覆われたカーリエ博物館(コーラ修道院)が見えてきます

コーラ修道院は11世紀~12世紀と14世紀の2度に渡って建築・増築されたため、中央に大ドームがあり、それを廊下が囲むという若干複雑な構造をしています。建築としては比較的小規模で雑然としており、あまり見るべき所はありません。

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それよりも、この聖堂はモザイクとフレスコ画で有名です。14世紀というビザンツ帝国最末期に製作されたそれらは、ビザンティン美術の最後の輝きと言われています。

早速中に入って見てみます。久しぶりにメジャーな観光地に来てテンションが上がってきました。

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入ると頭上にいきなりキリストのモザイク画が現れます。かなりの迫力と威厳です。顔が非常に写実的で、真に迫ってくるような雰囲気。

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拡大するとその緻密さがよくわかります。特に髭の描写が凄い。モザイク画の頂点と言われるのも納得です。

キリストの下を通ると内ナルテクス(廊下)に入ります。ここも凄い。天井一面が金色のモザイク画で覆われています。教会の大きさはアヤソフィアに遠く及びませんが、モザイク画の密度と壮麗さでは遥かにこちらが上です。

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このような絵が延々と天井にあります。これらは聖書の物語を絵にしたものです。
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壁面には4mはあろうかという巨大なキリストとマリアの立像があります。この構図はアヤソフィアにあった「デイシス」の左側ですね。
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左下に跪いている人物は皇帝アンドロニコス2世の宰相であるテオドロス・メトキティスであると言われています。このメトキティスこそが、これらのモザイク画やフレスコ画を作らせた張本人です。

コーラ修道院には1321年3月の銘文がありますので、その頃の完成とみられています。その頃のビザンツ帝国は衰退に衰退を重ね北海道くらいの面積しか支配しておらず、西洋諸国からは「帝国じゃなくて王国だろ」とか煽られていた時期です。

そういう軍事的・政治的に退潮の時だからこそ、美術でせめて立派なものを作ろうとしたのでしょうか。

 

聖堂本体の壁にあるマリアの表情も、そういう背景を鑑みると実に趣深いです。
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聖堂本体の中央奥には「聖母の眠り」のモザイクがあります。金色のモザイクを贅沢に使っていますが、派手さはあまり感じません。f:id:harimayatokubei:20190629212615j:image

キリストの上にあるのは天使でしょう。羽だけの天使というのも中々馴染みがありませんが、実はアヤソフィアにもあります。

大ドームも昔はモザイクで飾られていたのでしょうが、数度の地震によって全て欠落してしまいました。
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カーリエ博物館はこれで全て周りました。一品一品のモザイク画が素晴らしい上に、壁から天井まで全てモザイクで飾られている光景は圧巻です。

 

ん・・・?フレスコ画はどうしたのかって?

 

取り合えず下の写真をご覧ください。
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現在はSTEP3なので、フレスコ画があった外ナルテクスは見れませんでした!なんてこったい……。

前回の宮殿といいこういうパターンが多い。5年後くらいに必ず再訪したいと思います。

 

カーリエ博物館から割と近くに別のビザンツ建築のモスクがあります。これはケフェリ・モスクです。非常にごみごみした地域にあり、全体像を把握することは容易ではありません。
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中に入ると、この建物の奇妙さが分かります。ドームが無いのです。ビザンツ建築の教会には必ずあるドームが無く、長方形をしています。
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また、建物自体が北を向いているためそもそも教会ではなく、修道院の食堂的なものではと推測されています。ビザンツ時代の教会以外の建物はあまり残っていないので、貴重な遺構です。

外から見ても教会っぽくはありません。
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輝かしいカーリエ博物館の近くにある非常に地味な建築です。博物館からは近いので足を伸ばしてみてもいいかもしれません。

次は大城壁のエディルネ門あたりへ行きます。

 

つづく

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本日訪れた場所

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2019年2月イスタンブール旅行記:コンスタンティノープル総主教庁とポルフュロゲネトスの宮殿

正教会序列第一位 コンスタンティノープル総主教庁

丘を金角湾に向かって下ると入口が明らかに厳重な建物があります。これはコンスタンティノープル総主教庁です。かつてはアヤソフィアにあった総主教庁オスマン帝国時代はいくつかの教会を転々として、1600年からここに落ち着きました。その後もギリシア人の一揆を煽動した罪で総主教が磔にされるなど、ここ500年はかなり波乱の歴史を辿ってきました。

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手荷物検査を通ると聖ゲオルギオス教会が見えます。現在はここに総主教座が置かれています。幾度も火災による損傷と再建を繰り返してきたせいで外観は正教会っぽくありません。シンプルで地味な印象を受けます。

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門の上には双頭の鷲が掲げられています。これは言わずと知れたパレオロゴス朝ビザンツ帝国の紋章です。コンスタンティノープル総主教庁ビザンツ帝国の伝統を継ぐ存在として双頭の鷲を今でも使用しています。
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私は仏教徒ですが、特に問題なく教会の中に入れます。一歩踏み込んだとたんにロウソクの匂いを感じて、ここがキリスト教の教会であることを実感しました。

内部は非常に暗いです。奥の窓から光が差し込んでおり、静謐で神々しい雰囲気になっています。
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入口の上にはアヤソフィアにあったような金色で彩られたモザイク画が飾られています。(ギリシア正教に関する知識が無いの誰だかわからん)
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敷地内にはこの他に総主教のオフィスなどありますが、当然中には入れません。

ビザンツ帝国滅亡後もイスタンブールの2割程度の正教徒がいましたが、1923年のギリシャートルコの住民交換以降は減少の一途を辿り現在では2000人程度とされています。コンスタンティノープル総主教庁ビザンツ帝国の威光の残滓のような状態になってしまっていますが、1500年以上もの伝統を受け継ぐ存在として一見の価値はあります。

 

再び海の城壁へ

金角湾沿いまで降りてから北西へ進みます。「海の城壁」は意外と残存しており、各所で見ることが可能です。
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道を歩いていると教会を見つけました。これは聖ステファン教会といい、ブルガリア人正教徒の教会です。今までイスタンブールで見てきた中で最も教会っぽいビジュアルをしています。
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道路の向こう側で渡るのが面倒くさかったのでスルー(でも折角だし入っておけばよかった)。

 

アチク・ムスタファ・パシャ・モスクが見えてきました。これはビザンツ建築で創建は9世紀に遡ると言われています。9世紀はビザンツ帝国が暗黒時代を乗り越えて地中海の大国として復活しつつあった時期です。
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オッサンの「こいつ何を見に来たんだ?」という目が良い。

中に入ると非常に暗い印象を受けます。これは、床自体がビザンツ時代より150cmほど上がっていることに加え、ドームに窓が無いためです。これらの改変はオスマン帝国時代のものです。
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また、アーチが非常に太いことが分かるかと思います。このような太いアーチはカレンデルハネ・モスクのような10世紀前後の建築に取り入れられました。

このモスクは1957年にミカエルのフレスコ画が発見されましたが、保存のため隠されています。残念。あんまり見どころがない所でした。

 

ラケルナエの大城壁と最後の宮殿

このモスクから城壁の外側に沿って歩くと、金角湾を離れて丘を登り始めます。いよいよコンスタンティノープルの大城壁が見えてきました。f:id:harimayatokubei:20190622185617j:image

大城壁の北側は、他の部分と違って若干出っ張っています。日本の城でいう馬出のような雰囲気です。(下の図参照)

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これは、最初の城壁のちょっと外側にあったブラケルナエの聖マリア教会を城壁内に取り込むためであると考えられます。つまりここは増築部分なのです。ブラケルナエ地区はビザンツ帝国末期には皇帝も住んでいました。

途中にあったカリガリア門から城壁内に入ります。
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内側から見ると、三つあった入り口のうち一つしか使われていません。謎です。オスマン帝国の脅威がいよいよ迫った時に潰したのでしょうか?
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写真からなんとなく察されるかもしれませんが、このあたりは治安があまり良くない雰囲気です。人通りも無いので注意して進みます。

城壁沿いに南下すると古っぽいような建物があります。
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これはポルフュロゲネトスの宮殿です。東ローマ帝国最末期に皇帝の住処として使用されていました。トルコ語ではテクフル・サライと呼ばれています。
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なんだか小ぎれいな印象ですが、これは現在進行形で修復されているためです。少し前までは壁のみ残っており、屋根と床は無い状態でだったようです。

中庭も工事中で入れません。おそらく数年のうちには綺麗になってお披露目されるでしょう。ちょっと荒廃していた方が遺跡っぽくて好きではありますが。
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つづく

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今回訪れたところ

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※GogleMapにはコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿とありますが、これは間違いです。この宮殿が建設されたのはコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの数百年のちのことです。「ポルフュロゲネトス」とは「紫に生まれる」の意味で、つまり皇太子を意味します。当初は皇太子用の宮殿として建設されたようです。

なんでコンスタンティノス7世がポルフュロゲネトスと呼ばれたかはググって下さい。