2019年2月イスタンブール旅行記:コンスタンティノープル総主教庁とポルフュロゲネトスの宮殿
正教会序列第一位 コンスタンティノープル総主教庁
丘を金角湾に向かって下ると入口が明らかに厳重な建物があります。これはコンスタンティノープル総主教庁です。かつてはアヤソフィアにあった総主教庁はオスマン帝国時代はいくつかの教会を転々として、1600年からここに落ち着きました。その後もギリシア人の一揆を煽動した罪で総主教が磔にされるなど、ここ500年はかなり波乱の歴史を辿ってきました。
手荷物検査を通ると聖ゲオルギオス教会が見えます。現在はここに総主教座が置かれています。幾度も火災による損傷と再建を繰り返してきたせいで外観は正教会っぽくありません。シンプルで地味な印象を受けます。
門の上には双頭の鷲が掲げられています。これは言わずと知れたパレオロゴス朝ビザンツ帝国の紋章です。コンスタンティノープル総主教庁はビザンツ帝国の伝統を継ぐ存在として双頭の鷲を今でも使用しています。
私は仏教徒ですが、特に問題なく教会の中に入れます。一歩踏み込んだとたんにロウソクの匂いを感じて、ここがキリスト教の教会であることを実感しました。
内部は非常に暗いです。奥の窓から光が差し込んでおり、静謐で神々しい雰囲気になっています。
入口の上にはアヤソフィアにあったような金色で彩られたモザイク画が飾られています。(ギリシア正教に関する知識が無いの誰だかわからん)
敷地内にはこの他に総主教のオフィスなどありますが、当然中には入れません。
ビザンツ帝国滅亡後もイスタンブールの2割程度の正教徒がいましたが、1923年のギリシャートルコの住民交換以降は減少の一途を辿り現在では2000人程度とされています。コンスタンティノープル総主教庁はビザンツ帝国の威光の残滓のような状態になってしまっていますが、1500年以上もの伝統を受け継ぐ存在として一見の価値はあります。
再び海の城壁へ
金角湾沿いまで降りてから北西へ進みます。「海の城壁」は意外と残存しており、各所で見ることが可能です。
道を歩いていると教会を見つけました。これは聖ステファン教会といい、ブルガリア人正教徒の教会です。今までイスタンブールで見てきた中で最も教会っぽいビジュアルをしています。
道路の向こう側で渡るのが面倒くさかったのでスルー(でも折角だし入っておけばよかった)。
アチク・ムスタファ・パシャ・モスクが見えてきました。これはビザンツ建築で創建は9世紀に遡ると言われています。9世紀はビザンツ帝国が暗黒時代を乗り越えて地中海の大国として復活しつつあった時期です。
オッサンの「こいつ何を見に来たんだ?」という目が良い。
中に入ると非常に暗い印象を受けます。これは、床自体がビザンツ時代より150cmほど上がっていることに加え、ドームに窓が無いためです。これらの改変はオスマン帝国時代のものです。
また、アーチが非常に太いことが分かるかと思います。このような太いアーチはカレンデルハネ・モスクのような10世紀前後の建築に取り入れられました。
このモスクは1957年にミカエルのフレスコ画が発見されましたが、保存のため隠されています。残念。あんまり見どころがない所でした。
ブラケルナエの大城壁と最後の宮殿
このモスクから城壁の外側に沿って歩くと、金角湾を離れて丘を登り始めます。いよいよコンスタンティノープルの大城壁が見えてきました。
大城壁の北側は、他の部分と違って若干出っ張っています。日本の城でいう馬出のような雰囲気です。(下の図参照)
これは、最初の城壁のちょっと外側にあったブラケルナエの聖マリア教会を城壁内に取り込むためであると考えられます。つまりここは増築部分なのです。ブラケルナエ地区はビザンツ帝国末期には皇帝も住んでいました。
途中にあったカリガリア門から城壁内に入ります。
内側から見ると、三つあった入り口のうち一つしか使われていません。謎です。オスマン帝国の脅威がいよいよ迫った時に潰したのでしょうか?
写真からなんとなく察されるかもしれませんが、このあたりは治安があまり良くない雰囲気です。人通りも無いので注意して進みます。
城壁沿いに南下すると古っぽいような建物があります。
これはポルフュロゲネトスの宮殿です。東ローマ帝国最末期に皇帝の住処として使用されていました。トルコ語ではテクフル・サライと呼ばれています。
なんだか小ぎれいな印象ですが、これは現在進行形で修復されているためです。少し前までは壁のみ残っており、屋根と床は無い状態でだったようです。
中庭も工事中で入れません。おそらく数年のうちには綺麗になってお披露目されるでしょう。ちょっと荒廃していた方が遺跡っぽくて好きではありますが。
つづく
harimayatokubei.hatenablog.com
今回訪れたところ
※GogleMapにはコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿とありますが、これは間違いです。この宮殿が建設されたのはコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの数百年のちのことです。「ポルフュロゲネトス」とは「紫に生まれる」の意味で、つまり皇太子を意味します。当初は皇太子用の宮殿として建設されたようです。
なんでコンスタンティノス7世がポルフュロゲネトスと呼ばれたかはググって下さい。