彭丹「中国と茶碗と日本と」 感想
2019年現在、国宝に指定されている茶碗は全部で8点、そのうち5点が中国産、1点が朝鮮産、2点が国産となっている。国宝は「日本の宝」であるはずなのに、外国産が大半を占める。不思議だ。
また、中国では出来損ないの茶碗が、日本では「侘び」の極致として尊ばれている。これも不思議だ。
そして、日本における全ての茶碗の頂点に君臨する「曜変天目」は現存する全てが日本にあり、産地であるはずの中国には1点も残っていない。不思議だ。
本書はそうした茶道と茶碗に関する不思議を、中国人である著者が中国文化と日本文化の対比を軸に推理していったものである。著者は中国古典への造詣が深いため、随所で古典の引用が見られる。このため、ちょっと茶道をかじった人間には到底不可能な強固かつ説得力のある論理が展開される。
「答えは歴史のみが知っている」みたいなお茶を濁す内容ではなく、推測を交えつつも確固たる答えを提示している。こういう所が中国人っぽい。
本書ではいくつかの茶碗を軸に展開されるが、個人的に興味があったのは珠光青磁茶碗と曜変天目なので、この記事ではそれらについて簡単に説明する。
①珠光青磁茶碗
- 中国…出来損ないの雑器。農民が使っていたようなもの
- 日本…侘び茶の祖である村田珠光が愛した名碗
写真を見れば分かる通り、黄色い茶碗である。本来、青磁とは青くなるはずなのに、黄色くなってしまっている時点で出来損ないであり、筆者は「地方民窯が農民のために造った生活雑器であろう」と推測している。その出来損ないがなぜ有名かというと、侘び茶の創始者である村田珠光が好んでいたからに他ならない。では「侘び」とはなんなのだ。筆者は日本人の友人に聞いてみたところ「侘びは寂しさを意味する、日本の文化だよ」と言われたが、納得していない。中国にも侘びはあると主張する。
例えば、
秋陰不散霜飛晩
留得枯荷聽雨聲
という詩がある。
これは「どんよりとした秋空が広がるが霜はまだ降りてこない。枯れた蓮を打つ雨の音が心地よい」という意味である。私からしても「侘び」の感性に非常に近いものを感じる。
と、こんな風に中国にも「侘び」っぽい文化はある。では、なぜ日本の村田珠光だけが出来損ないの茶碗に注目したか。筆者は珠光が自分の茶道の斬新さをアピールするためという身も蓋もない推論をしている。つまり、「きちんとした青磁茶碗は高価すぎて手が出ない。でも出来損ないなら貴族じゃない俺でも手に入る。それに今までの青い茶碗と違って色も斬新だ。この黄色い茶碗を中心に俺の茶道を創って、有名になろう!」という訳である。このことから、日本文化の「侘び」も中国の青磁を尊ぶ文化を元にしてできた、と筆者は解釈している。
いやしかし……中国人だけあって日本人では考えつかないような、考えついても言わないような発想をズバズバ言ってくる。しかも、千利休や古田織部も二足三文の品物を「千利休お墨付き!最高の逸品!」みたいなセールス文をつけて売り、莫大な利益を得ている。*1
しかも、出来損ないの茶碗が日本に輸入された経緯も、日本では唐物茶碗がやけに高値で売れるので、出来損ないでもワンチャン売れそうだと当時の商人が思ったから、というこれまた身も蓋もない推論をしている。
②曜変天目
- 中国…現存せず。破片が出土。
- 日本…4品現存。うち3品が国宝指定。
間違いなく世界に存在する茶碗の頂点に君臨する茶碗である。写真を見れば分かるがとにかく凄い。
これに関しては珠光青磁と違って素晴らしさは中国にでも広く認められている。ではなぜ、中国で残っていないか。筆者は曜変天目が偶然の産物である事が原因であると断定した。
中国において窯の神様は風火窯神と呼ばれ、「火」は神聖視されてきた。例えば、朝廷の命令で焼き物を造ろうとしたが、なかなか上手く焼けず陶工が皇帝から殺されそうになったとき、火を見る陶工の娘が窯火の中に飛び込んだ。すると、素晴らしいものが出来たという。日本の人柱に近い概念かもしれない。この話は中国において窯火がいかに神聖で神秘的で人智の及ばない領域であったかを示している。
この人智の及ばない領域とは「天」のことである。中国では王朝は天命を得て人地を治め、天から見放されると滅ぶ(とされた)。洪水や疫病のような人智を超えた異変は天からの警告とされる。
曜変天目はこの「人智を超えた異変」の一種と解釈されたのである。曜変天目は、油滴天目や禾目天目と違って造ろうと思って出来たものではなく、偶然出来たものである。そのため、曜変天目は天が朝廷に警告を与えたから出来た、と捉えられた。しかも、「黒」は死後の世界を意味する色である。不吉すぎる。このため、曜変天目は世に出ることなく抹殺された。
ではどうやって曜変天目は日本に伝来したか。当時の文献には曜変天目を持ち出して富裕層に高値で売りつける商人の存在が書かれている。ただし、中国では曜変天目は綺麗だが恐ろしい異変の象徴であるとされ、おおっぴらには使われなかったようだ。こうした存在がいた以上、一部の曜変天目が日本に伝来した事も容易に推測できる。そして、中国人が感じた「恐ろしい異変」という概念は日本で消え失せ、ひたすらに華美で美しい茶碗として珍重されたのである。
このように素人目には「なるほど!」といった感じの論理構成をしている。しかし、村田珠光のあたりについてはネット上にも反論がなされているため、時間があればそっちも読みたい。
なにはともあれ本書は中国人の主観から日本文化を客観的に眺めたものとして、一定の価値があるといえる。読んで損は無いと思う。
なお、本書は古典からの引用が多い上に写真が数ページしかないため、ちょっと読みにくい。引用部分については適宜飛ばして読んだ方がいい。