西南周遊フリーきっぷ使用で高知・愛媛旅行 Part3:宇和島城と樺崎砲台
今日は城を2つ訪れてから、眺めが良い事で有名な下灘駅を見て松山市まで行きます。昨日と違って盛りだくさんですね。
まずは宇和島城へ行きましょう。ホテルでレンタサイクルを借りていざ出撃です。ただ、城がある丘は市街地のど真ん中にあるので歩いても余裕で行けます。
宇和島城は北東にある大手道と南西にある搦め手道の2種類の登道があります。まずは北東の大手道から登ることにしました。
平山城のご多聞に漏れず、宇和島城は山の下の平坦地に御殿がありましたが今では完全に市街化してしまっています。
下の写真は大手道の入口です。長屋門がありますが、これは武家屋敷の長屋門を移築したもので、城の門ではありません。
ちなみに門でもらったパンフレットにはかなり詳細に縄張り図が記載されています。
(出典:宇和島市観光物産協会作成パンフレット)
こういう地図があると城を歩くのがすごく楽になりますね!
さて、城の本丸へ行きます。平山城らしくいきなりの急坂です。少し登ると分岐がありました。左は急なルート、右は緩いルートです。さっさと天守閣に登りたいので左の急坂を登ります。
さらに登ると井戸丸の石垣がありました。枡形というほど強固なものではないですが、つづら折りになっており、それなりに堅そうです。
井戸丸にはその名の通り大きい井戸があります。廓全体がジメジメしていて、あまり良い雰囲気ではない……。
井戸丸を登ると先ほど分岐した緩いルートと合流して、三の門に到着します。これまでとは打って変わって打ち込みハギの高石垣が聳え立っています。
三の門を越えると、小さい二の丸があります。下の写真は二の丸から本丸への門である櫛形門(一の門)の跡地です。三の門〜一の門までは本丸直下を回り込むように通る必要があるため、攻め上がるのは至難だと思います。
一の門を越えるといよいよ本丸です。その奥に聳えている建物が現存12天守の一角である「宇和島城天守閣」です。
写真だと小さそうなのですが、これが意外と大きい!流石は天守閣。
三層の屋根に並んだ3つの千鳥破風が実に瀟洒ですね。最上階にある小さい唐破風も良い。さらにアシンメトリーに配置されている車寄せが全体の雰囲気を引き締めています。石垣も含めたデザインの纏まり方は現存天守の中でも随一でしょう。
一階にある車寄せから入ります。他の城だったら銃眼だらけなのでしょうけど、この城はそういうものはありません。
天守の一階に入って真っ先に感じたのは天井が高いことですね。わざわざ梁を2層にして天井を高くしています。
また、天守の一階にしては明るいですね!外から見るとそうでも無いのですが、天井の高さと明るさが相まって軽やかな印象です。
そしてこちらは天守閣の雛形です。実は江戸時代の大変貴重なもので、天守閣の構造を完全に再現しています。仮に宇和島城が現存していなかったら、これを元に復元されたことでしょう。
2階に上がると屏風が飾ってありました。構造自体は1階と変わらないですね。
最上階の3階にも屏風があります。こちらは江戸時代の宇和島城の鳥瞰図です。
1階と2階は犬走りがあったのですが、3階は特にそういうことはなく全体で1つの部屋になっています。ベランダがないため開放感はありませんが、窓の隙間から見える眺めは中々良いです。
この天守閣は展示物も特にないため城下を暫く眺めてから降りました。下の写真は車寄せから眺めた本丸です。あまり広くないため高知城とは違って御殿は存在せず、御台所という建物があっただけのようです。
天守閣の石垣は切込みハギです。低そうに見えても実は3mくらいあります。流石に天守の石垣は特に気合が入ってますね。
もう一回、本丸から天守閣を眺めます。普通は石垣のへりまで建物が建っているものですが、この天守は石垣より30cmくらい内側に引っ込んでいるんですよねよね。謎だ。
一番の目的は見たので下城します。今度は行きと違って緩いルートを歩きましょう。
急なルートとの分岐を過ぎると、藤兵衛丸に出ます。40m四方くらいの中規模の廓で、郷土資料館が建っています。
この資料館は山里倉庫という実は現存の建物です。幕末の1845年に武器庫として建設されたようですね。
内部には宇和島出身の偉人に関する展示があります。おそらく宇和島出身の偉人で一番有名なのは児島惟謙でしょう。結構充実していて良いですね。ちなみに無料です。
この藤兵衛丸の周りには石垣で固められた土塁があります。このあたり中世城郭っぽい。
藤兵衛丸を降りると長門丸に出ます。この長門丸は山下の三の丸を除いて一番大きい廓です。おそらく緊急時には兵士の収容場所になるのでしょう。
で、この長門丸から眺める藤兵衛丸の石垣が素晴らしいんですよね!!今は資料館がちょろっと見えるだけですが、石垣の上に櫓が建っていた往時はそれはそれは立派な眺めだったことでしょう。
このあたりに搦め手から長門丸に入る長門丸門があったようですが、今は跡形もありません。
実はこの先進んでいく「緩いルート」は江戸時代は無かった道です。そのため、特に見るものはありません。
緩いルートを下って長屋門がある登城口まで戻ってきました。今度は南側にある搦め手に行きます。
城を囲むように通っている国道56号を500mほど行くと搦め手に着きます。この薬医門は「上り立ち門」といって宇和島城の現存建物の1つです。やっぱり城の建物だけあってそこら辺の薬医門とは大きさも門の厚さも違います。
搦め手は特にルート分岐はありません。ちょっと登ると式部丸の苔むした石垣があります。
その式部丸からは代右衛門丸の石垣が聳えています。もしかすると城内で最も大規模な石垣なのではないでしょうか?ここが搦め手側の防衛拠点のようですね。
本当はこの代右衛門丸から長門丸に行けるのですが、工事中だったので搦め手側からは登れませんでした。ちょっと残念です。
整理すると
大手道:三の丸→井戸丸→三の門→二の門→一の門→本丸
搦め手:代右衛門丸→長門丸→三の門→二の門→一の門→本丸
という経路をたどることになります。正直言って石垣自体は搦め手の方が立派です。ただ、大手道も昔は大手門や三の丸にあった桜門という2つの枡形門があったようです。つまり
大手道:山の下にある大きい枡形門と堀で防備
搦め手:山の上で防備
ということでしょうか?
全体的には中世城郭を改修しました、という感じの城でした。山の下の三の丸や大手門が現存していたら全く違った感想になったことでしょう。空襲で焼けてしまったのがつくづく惜しい。
ちなみに宇和島城は5角形をしています。これは築城した藤堂高虎が敵に城の形を勘違いさせるようにするためらしいです。んなアホなwwwwwと思うなかれ、実際に江戸幕府の隠密が「四方の間、合わせて十四町」と報告書を送っているので中々侮れません。
かくいう私も城の周りを自転車で移動していたら若干迷いました。五角形の地形って中々イメージしにくいんですよね……。
1時間半くらいで宇和島城を見てから次は港の方へ行きます。目的は砲台跡です。こちらの樺先砲台は幕末に宇和島藩が作ったものです。
現在は海に面していません。が形は残っています。実際の砲台跡は下の写真です。
……?なんだかよく分からない……。
砲台を外から眺めると形がよく分かります。非常に地味な遺構ながら現在まで残っている所がGOODですね。当時はこの砲台の前方と左右は海だったようです。
ちなみに下の石垣は現存ですが、上のコンクリートの部分は平成になっての復元のようです。
近くには明治時代に建てられた建物を利用した宇和島市歴史資料館があります。
内部にあった展示は宇和島城の資料館と殆ど一緒だったので割愛。
2階にはなぜか何も無い部屋がありました。窓が低い位置まで開いているため、独特の雰囲気になっています。
12時近くになったのでホテルにレンタサイクルを返して宇和島駅に行きます。
下の写真は宇和島中心部にあった暗渠。こういう暗渠っていいですよね。
商店街にあったファミレスです。
なぜ仏像……?中を見ても完全に仏具屋でした。全く意味が分からない。
12時56分発の宇和海16号で大洲に向かいます。
カレーパンマン号ですね。ちなみに車内アナウンスはアンパンマンでした。JR四国の企業努力が身に染みます。
途中の八幡浜駅出口には「別府連絡」の看板がありました。そういえば八幡浜からは九州にフェリーが出ていましたね。フェリーは鉄道や高速道路よりも意識されにくいですが、松山〜八幡浜〜別府には確かに一本のルートが存在するようです。