水戸城 ~大手門復元で復活を遂げた御三家の居城~
歴史
茨城県水戸市にある水戸城は徳川御三家である水戸徳川家の居城である。
その歴史は非常に古く1190年頃に大掾氏が築いたとされ、1470年に江戸氏、1590年には佐竹氏が城主となった。
関ヶ原の戦い後に佐竹家が秋田に転封となったので、代わりに徳川頼房が封じられて徳川御三家・水戸藩が確立する。水戸城には徳川家の前は佐竹氏の城というイメージもあるが、意外と城主だった期間は短いのである。
石高は堂々の35万石。・・・・・・だが実高は28万石程度だったため、実収入よりも格上の軍役や儀礼が課せられて藩の財政は常に火の車であった。また、代々の水戸藩主は常に江戸で勤務する江戸定府だったので、水戸に藩主がいることもなかった。
1841年には徳川斉昭により
概要
藩主が城に殆どいない、という事情のせいか、水戸城は徳川御三家の名古屋城・和歌山城と比べても非常に質素な構成です。斜面に石垣は殆ど用いられず、二重櫓がわずか4棟あるのみ。御三階櫓(天守)もありましたが、破風が一切使われない質素な外観でした。このように建築物の規模としては小さかったのは間違いありません。
ただ、水戸藩は藩校である弘道館が有名であるように、華美な櫓よりも教育や実学を重んじる気風だったようです。現在も水戸城跡には水戸一高や水戸三高、水戸二中などの学校が立地しています。
そして……この水戸城の本領はその縄張にあります。
城の構成は典型的な梯郭式で、本丸・二の丸・三の丸が一直線に並んでいます。北を那珂川・南と東を千波湖に囲まれており、城の立地としてはパーフェクトに近い。しかも本丸・二の丸の崖は30mほどもあってそこらの山城よりも急峻です。
見ての通り縄張は単純ですが、この立地ならば縄張を複雑にする必要はないでしょう。
台地に続いている西側が唯一の弱点なので、二の丸(十字がある所)や本丸(その右下)は西側だけに土塁があります。
陰影図では分かりませんが、三の丸には超巨大な空堀がありますし、二の丸と本丸の間にある目もくらむような高さの堀などは一見の価値ありです。しかし、やっぱり名古屋城や和歌山城と比較して地味なんです。
こればっかりは天守も石垣も無いので仕方ありません。本丸に現存する薬医門は結構立派だけどしょせんは薬医門ですし。
そんなどこかメジャーになれない茨城県を象徴するような水戸城でしたが、なんと2020年に大手門と二の丸角櫓が復元されました!これはかなり驚きです。よくやった水戸市。
茨城県民として見に行かない訳にはいきません。……が、近場だしそのうち行くだろう、と思っていたら丸1年経過してしまったので3月頭に行ってみました。
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つくば市から車で1時間半で水戸市に到着。20年以上茨城県民をやっているものの、水戸に来たのは12年ぶりです。当時はパスポートの作成のため来たんだっけかな?県南に住んでいると水戸よりも東京の方がはるかに身近なんですよね。
茨城県庁三の丸庁舎の駐車場に駐車しました。弘道館入場で3時間無料になるらしい。
まず目に入るのが三の丸空堀。
他の城ではあまり見ないほどの巨大さです。ここまで大きい堀があるのは流石徳川家だなぁ、という感じ。
この空堀に面している土塁も大きい。車と比較すると高さがよく分かると思います。
土塁の上は櫓でもありそうな広さですが、江戸時代は土塀すら無かったようです。
土塁から眺める空堀。今は三の丸庁舎に入る土橋が架かっていますが、江戸時代は奥まで一直線に堀が続いていました。
土塁の内側、かつての三の丸には茨城県三の丸庁舎があります。レトロ調の外観なので映画撮影などにも利用されているらしい。
三の丸庁舎の南側には県立図書館があります。この土橋も後生の増築のようです。
三の丸と城外を結ぶ枡形虎口の土塁(多分)。県立図書館の近くにあります。
下の地図によると、どうやら上の写真は虎口の外側からで、内側は警察署になっている模様。
ちなみにこの周辺には上のような看板が随所に立っており非常に見学しやすかったです。非常にありがたい。
しかし……この地図、御城(二之丸)ってあるけどゴミのせいで「三ノ丸」みたいになっていますねw
弘道館の南にある水戸市三の丸小学校です。景観に配慮しているためか陣屋みたいな立派な門になっています。
弘道館の横を歩くといよいよ見えてきました。
2020年2月に復元された水戸城大手門!
デカい!すごい!!
いやぁ~~立派になったなぁ。ちょっと感動しますよこれは。12年前はただの道路が通っているだけでした。
御三家の迫力としては十分すぎる規模です。
1階は板張りで、2階は真壁造りです。鯱も乗っており非常に格式高いことがよく分かります。
右を見ると深い空堀が延々と続いています。累々と連なる土塀が美しい。漆喰ではなく下見板張りな点からも質実剛健な気風が感じられます。
内側から見た大手門。なんかご老公の一行みたいな人が沢山いる笑。
二の丸です。江戸時代はここが政務の中心地でした。学校の敷地になっていますが、塀や門が整備されており雰囲気はあります。
この二の丸に建っていたのが御三階櫓です。破風の無い特徴的な外観でしたが、太平洋戦争で焼失。以後再建はされていません。昭和まで残っていたので考証的には再建可能だと思うのですが、学校の敷地内なので難しいのでしょう。
さあいよいよ本丸に向かいます。現在は水戸一高の敷地ですが、一部だけ立ち入りが許されています。
まず注目すべきは本丸と二の丸の間にある堀。ここも大手門前と負けず劣らずとんでもない高さです。
水戸一高の正門です。枡形虎口になっていますね。
門を通ると、水戸城唯一の現存建築である薬医門に着きました。
実はこの門、明治以降は移築先が二転三転していたため正確にどこの門かは分かっていませんが、本丸入口(つまり水戸一高正門あたり)の橋詰門だと言われています。
とにかく重厚感がある門で、屋根の厚さと柱の太さは特筆されるものがあります。技法からして安土桃山時代、つまり佐竹氏が建造したと推測されています。
写真だと伝わりませんが、この門も大きい。本丸の入口に建っていたのも納得の大きさです。
本丸の西側には土塁が続いています。本丸には2基の二重櫓があったようですが、こちらも学校敷地だし復元は厳しいかも。
なお、学校敷地なので見学エリアは以下のようになっています。学校内の城跡はどこまで踏み込んでいいか迷う場面も多いので、はっきり規定してくれるのはありがたいですね。
二の丸まで戻ってきました。
この門は杉下門。城の北側に出れる杉下坂を守っており、江戸時代の位置に再建されました。
外観はごく質素です。民家にありそうな雰囲気。
この杉下門の近くの通路を通ると、見晴台に出ました。
おお……まぁ、それなりの眺めです。目の前を流れるのは那珂川ですね。
この崖際にも往時は土塀があったようですが、見ての通り土塁はありません。まぁこの崖から攻める事は無理でしょう。
見晴台を出てから二の丸の南に向かいます。
杉下門と逆に二の丸の南に下りるのが坂下門です。規模は杉下門とほぼ同じくらい。
この復元された門ですが、元は別の位置にありました。それはどこかと言いますと……
↓こちらの水戸三高の入口です。こりゃ確かに同じ位置に復元できない。
坂下門付近からは空堀越しに本丸が眺められます。右上には本丸月見櫓がありましたが、今は濃いヤブに覆われています。
二の丸の南側を歩きます。昔はこの崖の上に多門櫓があったらしい。
5分も歩くと水戸駅前に着きました。御馴染みの光圀公の銅像です。
そして、水戸駅前のペデストリアンデッキから見えるのが、復元建築の目玉でもある二の丸角櫓です!
おお!
おぉ……
お、思ったよりも小さい……。
二重櫓としての大きさは並ですが、二の丸の崖が高すぎる上に、ビルの向こうでしか見ることができないためかなり小さく思えます。
ちなみに江戸時代初期の正保城絵図では総漆喰ですが、明治の古写真では下見板張りになっており、復元も下見板張りになっています。これは江戸時代中期に水の跳ね返りに対する壁の維持のため、漆喰から下見板張りに変更されたためです。水戸藩だけの事ではなく全国的によくある事でした。
それはそうと、駅前を歩いていると水道施設?を利用して看板が設置してありました。スペースを有効活用しており素晴らしいと思います。他の自治体もどんどんやって欲しい。
三の丸に向かって坂を登っていると、ビルの裏手に謎の湿地帯を発見しました。
当時の地図によると、どうやら三の丸南にあった水堀の跡のようです。GoogleMapの航空写真を見るとL字に折れている様子も分かりますね。
もしかしたら水戸城で唯一の水堀遺構かもしれません。でもビルの間にあるので復元は難しそう。
ちなみに三の丸パーキングの横からも角櫓を眺められます。でもやっぱり遠い。内側から見学するルートを作って欲しいなぁ。無理なのかなぁ。
これで水戸城の見学はおおよそ終了しました。折角水戸まで来たことですし(それに駐車場代をタダにするため)弘道館に行ってみます。
パッと見た感じは普通の寺っぽいですね。
表玄関から入ってすぐの間に飾られているのが
「尊王攘夷」の掛け軸。この時点で「外国人はブッ殺せ」的な水戸学の影響をビンビンに感じます。まぁそりゃ水戸だから当然ではありますが。
しかしこういう建物は城郭建築と違って興味が湧かないんですよね。だからこんな写真を撮ってゲラゲラ笑ったりしました。
30分ほどで見学終了。
弘道館から駐車場に戻る途中で土塁を発見しました。
これは弘道館の周囲に巡らされた土塁と堀を復元したもののようです。門も復元されていますが、三方向が土塁に囲まれていてなんだか笑える(江戸時代は左に抜けられたようです)。
駐車場かを出て西に車を走らせます。途中で有名なタワーを発見。正式名称はなんだっけ?
上のアートタワー(というらしい)があるあたりは、かつて侍屋敷でした。直線的な町割りから当時の面影が微かに感じられます。
県立歴史館に車を置いてやってきたのは偕楽園。梅の時期なので折角だし来ちゃいました。
へー、結構良い感じの雰囲気じゃん。
園の真ん中には好文亭があります。1840年に徳川斉昭によって設計・建設され、1945年の戦災で焼失したものの復元された建物です。
高さは8mで先ほどの角櫓より1m低いくらいですね。
最上階は見晴らしが素晴らしい。
千波湖と水戸市が遠望できます。
最上階には配膳用昇降機という謎の機構がありました。
なんでも、下にお盆を設置して滑車で釣り上げていたらしい。なんと徳川斉昭考案だとか。こういう発想がポンポン出てくる人だったんですね~。
偕楽園は梅も良いのですが、森エリアも渋くて良い。
梅の時期を外して訪れるのもいいかもしれませんね。
そろそろ日も沈むのでこれにて退散。思いがけなく充実した水戸観光となりました。
感想
水戸城……こんなに立派になって……(泣)。三の丸の空堀がものすごくて本丸に行くにしたがって遺構がしょぼくなっていった水戸城ですが、大手門と角櫓の復元によりかなり城っぽい外観になったと思います。
大手門・角櫓の他にも、本丸の月見櫓や二の丸の多門櫓、そして天守閣の古写真も残っていますし復元できるのではないでしょうか。特に天守閣は是非とも復元して欲しい。全国でも類を見ない奇抜な外観なので、かなり目立つんじゃあないでしょうか。
弘道館・偕楽園と一緒に周れば結構楽しめると思います。是非とも水戸藩の気風を色々な人に感じて欲しいですね。
ちなみに水戸城は下記のような詳細な絵図が残されています。見学の際には是非とも参照してください。
正保城絵図は正保年間(1644年頃)
実測図は明治初頭頃と推測(元彰考館とか書かれているから)。
おわり
躑躅ヶ崎館 ~館が滅ぶとき、武田も滅ぶ~
躑躅ヶ崎館は甲府市の北にある城(館)です。
世間的には武田氏館という名前のほうが知られているでしょう。その名の通り、武田信虎・信玄・勝頼の3代に渡って武田氏の中心拠点でした。
そもそも甲斐武田氏の歴史はものすごく古く、初代武田信義は一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いにも参加いるほどです。血統という点では織田・徳川・毛利らを遙かに凌駕すると言っても過言ではありません。
武田氏は鎌倉・室町と栄枯盛衰はありましたが甲斐国の守護として存続し、第18代武田信虎の時代に甲斐を統一して戦国大名として名を挙げました。躑躅ヶ崎館が造営されたのはまさにこの時代(1519年)です。
信虎の息子、武田信玄の時代には甲斐・信濃・駿河と言った広大な領地を得て日本有数の大大名に成長します。上杉謙信とは川中島で何度も激戦を繰り広げたことは有名ですが、一方で北条氏とは甲相同盟を結び外交的にも安定していました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼は順調に領地を拡大するものの、1575年の長篠の戦いにおいて織田徳川軍に手痛い敗戦を喫します。さらに、上杉謙信亡き後の上杉家で発生した御館の乱において、勝頼は上杉景虎(北条氏康の息子)ではなく上杉景勝を支援しました。これにより北条氏との同盟も破綻してしまい、結果的に武田氏は織田・徳川・北条に領地の3方を囲まれる状況になってしまいます(頼みの綱の上杉家は御館の乱のせいでかなり弱体化してしまった)。
まさに四面楚歌ならぬ三面楚歌な状況の中、勝頼は防御力に乏しい躑躅ヶ崎館を捨てて堅固な立地の新府城への移転を画策します。1581年年末、一応の完成をみた新府城に勝頼は入城しました(ちなみに、新府城の普請奉行は真田昌幸だったりする)。この際に移転に反対する家臣を押し切るために躑躅ヶ崎館の御殿等は徹底的に破壊したようです。
しかし、新府城に移転したわずか3か月後、1582年初頭には織田軍が信濃を落として甲斐に侵攻してきました。未完成の新府城では支えきれないと判断した勝頼は家臣の小山田信茂の意見を採用して大月へと逃亡します。ところが、その小山田氏にも裏切られて遂に1582年3月、天目山にて自害しました。こうして平安時代より続いた源氏の名家である武田氏は滅亡したのです。新府城移転のわずか4か月後のことでした。
主を失った躑躅ヶ崎館は甲斐を領地とした織田家家臣である川尻秀隆の居城となります。
本能寺の変後は甲斐を支配した徳川家によって領地支配の拠点となり、城域の拡張や天守閣も造営されたようです。
その後、徳川家から浅野家に甲斐領主が移ってから1590年に甲府城が建設されます。甲斐支配の機能はそちらに移り、躑躅ヶ崎館は廃城となりました。
江戸時代を通じては古城と呼ばれ、旅行者には武田氏の館と認知されていたようです。ただ特に保存などはされておらず基本的に竹藪だったらしい。
明治時代になってから信玄を祀った神社の創建運動が活発になり、1919年に武田神社の社殿が完成。現在でも躑躅ヶ崎館は武田神社の敷地となっています。
「館」の名の通り、城というよりはむしろ館といった感じです。武田神社所蔵の信玄公館絵図を見る限り、信玄時代は本当にただの方形館だったのではないでしょうか。
その後、勝頼や徳川家時代を経て大幅に拡張されたようです。ま、確かにそう言われてみれば本郭を中心に徐々に拡張された様子が縄張からもなんとなく推測できます。
それにしてもこの館を本拠地にするとは相当に大胆な選択です。北条の小田原城・上杉の春日山城と比べても破格にしょぼい……というかシンプル。信玄は領国に敵を引き込んで消耗戦に引き込むつもりなどサラサラ無く、占領地に築いた城で領地を防衛するつもりだったのでしょう。確かにそれなら本拠地は戦闘要塞ではなく政庁としての機能があれば事足ります。
しかし、勝頼の時代にこのプランは破綻しました。北条との同盟が消滅して守るべき戦線が限界まで伸びきってしまったのです。個人的には勝頼一番の失敗は長篠の敗戦ではなく、御館の乱で上杉景虎(北条氏康の息子)ではなく上杉景勝を支援して甲相同盟が消滅した点だと思います。もしかしたら北条に上下挟まれることを警戒したのかもしれませんが、織田を前にして北条と手を切ったのは痛すぎた。
甲斐に織田が攻めてくるかも、というタイミングで慌てて新府城に移転した時点で武田氏の凋落は決定的だったのでしょう……。
今回は甲府城を訪れた後に躑躅ヶ崎館を訪れてみました。
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はい、武田神社です。言わずと知れた観光地でこの日も観光客が大勢いました(緊急事態宣言とは一体……)。
一見すると大手門のようにも見えますが、この入口は明治の改変で本来の大手門は東側にあります。
ちなみに城の縄張を見る限り平坦地だと思われがちですが、実際は自転車だとキツい程度の傾斜地です。
まず訪れたのは城の南西にある梅翁曲輪。おそらくは徳川時代の拡張です。
住宅地に土塁と堀が残されています。
思ったよりも堀が広い。一見すると復元のようですが、現存遺構です。最近までため池として使われていたらしい。
ぐるりと回って館の東側にある大手曲輪にやってきました。
この辺は畑になっていた場所で堀や土塁は復元です。丸馬出の遺構が発掘されたようですが、今は土の中。
東に面している大手門です。土塁がデカい。
そして堀も深い!!本当に館かと疑うような超大規模な空堀です。
本曲輪は武田神社境内となっています。
本曲輪から西曲輪への虎口。枡形などは特にありません。
本曲輪と西曲輪の間は南側が水堀となっています。
西曲輪は神社境内ですが、残土が置かれていたりと雑然とした印象。国指定史跡なんだからもうちょっと管理してもいいのでは。
この西曲輪からは本曲輪の天守台が見えます。ここも高さ深さが大迫力。石垣らしき石も若干見えますが、往時はどういう感じだったのでしょうか。
西曲輪の北門はご覧の通り枡形虎口となっています。よく見るとこの枡形虎口は松代城の太鼓門とそっくりですね。両方とも武田氏の城なので似ているのかも。
西曲輪の北にある味噌曲輪。名前が面白い。ここからのアングルだと城が傾斜地に立地していることがよく分かります。
絶賛発掘中の様子。この辺にも馬出があったようなので是非とも復元して欲しい所。
味噌曲輪南東には割と大き目な櫓台が残されています。二重櫓くらあってもおかしくない規模感。
味噌曲輪の土塁から無明曲輪を眺めます。手前の溝はおそらく堀跡でしょう。
畑として利用されていたためか本曲輪よりはかなり浅い堀です。所々に石積みが残っていますが後世のものかも?
本曲輪の北には橋が架かっていたようですが今では全く分かりません。本曲輪の北側は武田神社の敷地で立ち入り禁止なんですよね~。このため天守台も内側から登るのは不可能です。
この橋にも馬出があったようです。もしかしたらこれがその堀跡かもしれません。非常に浅く何とも微妙な感じ。
西曲輪に戻る途中で西曲輪の土塁を眺めていると石垣が若干残っている事が分かりました。あまりにも微妙で当時の遺構とは考えにくい……いやいや、もしかしたら徳川時代のものかもしません。
西曲輪の南虎口です。ここも桝形虎口になっています。
西曲輪の南から眺める水堀。そういえばこの館は北側が空堀で南側が水堀になっています。傾斜地に立地しているからでしょう。
西曲輪西側の水堀。とにかく幅が広く立派です。
これでおおよそ一周したので見学は終わりとしました。
来る前は「しょせんは館だろ?」と思っていたのですが、水堀・空堀・土塁、どれを取っても超ド級です。中世の館とはとうてい思えないほど深く高い。しかも館にしては面積も非常に広くて正直驚きました。そこらの中世城郭を遥かに凌駕しています。
一方で、北条氏の小田原城や上杉氏の春日山城と比べるとちょっと劣るなぁ、という感じ。まぁ所詮は館なんですよね。大手門の構造も単純ですし、本丸が直接外と接しているのも城としては弱い。
とはいえあの武田信玄の居館なので今後も多くの観光客が訪れるものだと思います。建物の復元などは難しいかもしれませんが、発掘調査を続けて日本百名城としての魅力も高めてほしいと思います。
おわり