転がる五円玉 ~旅と城と山~

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要約と感想:ビザンツ帝国の政治的イデオロギー エレーヌ アルヴェレール (著), 尚樹 啓太郎 (翻訳)

大学図書館でたまたま見つけた本です。いわゆる学術書なのですが、比較的とっつきやすい文体だったのでスラスラ読めました。感想の前に軽い要約をします。

 

Ⅰ ローマを持たない「ローマ帝国

 知っての通り、東ローマ帝国ローマ帝国の東半分を継承した国家である。首都は「聖母の都市」「新ローマ」「新エルサレム」と称したコンスタンティノープルであり、野蛮化した西洋に対してキリスト教的世界理念に基づいた帝国であった。

 しかし、東ローマ帝国は一つの矛盾を抱えていた。それは「ローマ帝国」なのにローマを領有していない事である。正直言って東のペルシアの圧力や国力を考慮するとローマを征服する余裕は無い。だが、それでもローマを再征服(レコンキスタ)したいというローマ的普遍主義も持っている。この矛盾は東ローマ帝国の最期まで抱え続ける事になる。

 

Ⅱ ローマ的普遍主義 〜理想への進撃〜

 六世紀は後者のローマ帝国的理想を追い求めた時期であった。皇帝ユスティニアヌスはローマを征服し、地中海を帝国の内海とした。領土は三大陸にまたがり、首都にはアヤソフィアのような偉大な建築が作られ、「キリストに任命された皇帝」の金貨は世界に行き渡った。

 しかし、この黄金時代は国力の浪費によりあっけなく崩壊する。蛮族は帝国内に国家を作り、東方のペルシアはエルサレムに攻め込み聖十字架を奪い去った。これに立ち上がったのが皇帝ヘラクレイオスである。東方への十字軍を宣言したこの皇帝はペルシアの首都クテシフォンに攻め込み十字架を奪還した。皇帝は勝利し、凱旋した。しかし、この時すでにアラビア半島では新たなる宗教が勃興していたのであった。

 

Ⅲ ビザンツ国民主義 〜総力戦〜

 八世紀半ばから九世紀にイスラム教によって圧迫された帝国は国家の全勢力を国土防衛に費やした。イスラム教によって首都が包囲されるまでに至り、軍隊の重要度は増し、ローマ的な弁護士や官僚は軽んじられるようになった。地方の都市はポリスではなく城壁に守られた地味なカストラ(城塞)になった。国土は国境線だけではなく、地方ごとに設立された軍によって防衛された。地方の人間が自分の故郷を守るようになったのである。ローマ的な膨張国家理念ではなく、ビザンツ国家主義の下に貴賎を問わず国民は団結した。これはイスラム教徒が聖戦という大理念の下に一致団結していた事に対応している。イスラム教対キリスト教という構図は東ローマ帝国がローマ的理念を捨てて、ビザンツ帝国に変貌する原動力となった。

 

Ⅳ ビザンツ帝国主義 〜我らが真の民〜

 イスラムの攻勢がひと段落ついた帝国は徐々にかつての力を取り戻した。そして、10世紀〜11世期にかけて紛れもなく全盛期でヨーロッパで最強の国になった。ドイツ皇帝を兄弟、ブルガリアツァーリは息子、その他の小さい国は友人と呼んだように他の国の親として宗主権を主張した。

 また、西欧とキリスト教の教義が食い違い始めた事に伴い「自分たちは正しいキリスト教を保っている」→「ビザンツ人こそが高貴な真の選民である」という意識が首都を中心に芽生え始めた。このため、全キリスト教徒のために戦う思想は捨て、同じキリスト教国であっても場合によっては攻め滅ぼすようになった。バシレイオス2世によるブルガリア人捕虜の対処はその典型例である。1万4000人の捕虜たちは皇帝によって全盲にさせられ、唯一片目だけ抉られた兵士に導かれて帰国した。視力の除去はビザンツ法では「大逆罪」の刑罰である。神の地上における代理人である皇帝の行動は全てが正当化されるようになり、その皇帝の臣民は自らを真の民だと思い舞い上がっていたのであった。

 

Ⅴ ギリシアビザンツ的な貴族的愛国心 〜特権階級による支配〜

 この全盛期は無能な皇帝の放漫財政と蛮族の侵入により終わりを告げた。コムニノス家の皇帝アクレクシオスは一介の軍事貴族だったが、首都に攻め上がり新たな王朝を打ち立てた。新たなビザンツ軍は勝利し帝国は立ち直った。しかし、これらの軍は八世紀の国民軍隊とは大きく異なり、貴族的な家族によって率いられた軍隊なのである。コムニノス家はあらゆる貴族と縁戚関係を結び、国家の機関を自分の一族で支配した。国民ではなく、貴族的な愛国心によって帝国は維持されるようになった。

 

Ⅵ 排外的愛国心 〜西欧との断絶〜

 カール大帝ローマ教皇によってローマ皇帝に叙任されたあたりからギクシャクし始めたビザンツと西欧の対立はついに決定的となり、ついに1054年の東西教会相互破門に至った。それと共にビザンツ帝国のイタリア領はノルマン人によって侵略された。ビザンツ人はノルマン人の行動をローマ教皇にそそのかされたと噂したという。ノルマン人がビザンツに攻め込むのは栄光ある帝国を貶めようとする卑しい計画のためであると考えたのである。

 また、帝国内を通過した十字軍に対してビザンツ人が抱いた嫌悪は相当なものであった。西洋では司教が手を血で汚しながらも戦う。しかし、ビザンツでは司教が剣を手に取ったら破門ものである。このような文化的な違いもある状況から、ヨーロッパから西欧と東欧という概念が生まれ始めた。

 

Ⅶ ヴェネツィアの侵食 〜経済的隷属化〜

 西からはノルマン人、東からはトルコ人が押し寄せる状況で皇帝はヴェネツィアに経済的な助けを求めた。ヴェネツィアの商人はコンスタンティノープルに商館を設け関税特権を得て利益を上げ始めた。すると当然、ビザンツ人の利益は減る。一般市民の生活は困窮し始め、市民はラテン人(西欧人)をさらに憎むようになった。これは後々に破滅的な悲劇をもたらす。

 

Ⅷ 地方の離反 〜バラバラになる帝国〜

 さて、皇帝マヌエルはヴェネツィアによってもたらされた富でかつてのローマ帝国を復活させる大遠征に打って出た。軍はアフリカまで送られたがいずれも失敗した。結果的にマヌエルの時代はビザンツ帝国が東欧の大国として振る舞った最後の時代になった。マヌエルの息子アンドロニコスは努力したが、首都まで攻め上がってきた蛮族を目の前にして恐慌状態に陥った市民に殺された。その後のアンゲロス家の皇帝たちは揃いも揃って無能で、ビザンツ帝国は急速に衰退し始めた。(例えば皇帝イサキオスは自分の服を買うために官職や爵位、教会の財宝を売り飛ばす始末だった。)

 この辺りからコンスタンティノープルの失政に対して地方が冷淡な態度を取るようになる。地方の有力者は税を取り立てるだけで何もしない無能な中央政府に愛想を尽かし、不快感すら感じ始めていた。しかも、このように地方が次々に離反しているにも関わらず、首都は何も手立てを講じる事は無かった。

 そして遂に1204年の破滅が訪れた。ヴェネツィアによって率いられたラテン人の第四次十字軍によってコンスタンティノープルは陥落した。これに対して地方の民は喜びさえしたという。「罪を犯した都市」コンスタンティノープル当然の帰結として破局を迎えたのだと考えたのであった。

 

Ⅸ ギリシア正教愛国心 〜首都の復帰〜

 残された地方の人々はコンスタンティノープルの陥落を初めは喜びこそしたが、次第に屈辱と感じるようになった。やはりなんだかんだ言ってコンスタンティノープルビザンツ人の威厳の象徴だったのである。数年前には誰もが見捨てた都市が再び全ビザンツ人の魂となった。これ以降、ビザンツ帝国の残存国家はコンスタンティノープルの奪還に全力を注ぐようになる。その中ではラテン人(カトリック)への憎悪の炎が燃やされ、対してギリシア正教的な愛国心が創り上げられた。

 1261年7月25日にラテン人の失政もあり、ギリシア人兵士がコンスタンティノープルに入城した。これを率いた皇帝ミハエルは新コンスタンティヌスと讃えられた。ミハエルはかつてのローマ的世界理念の下、ラテン人によって失われた西方の領土回復を推し進めた。東方は顧みられなかった。東からはトルコ人が押し寄せているのにである。また、ヴェネツィアジェノバは首都で商業活動を盛んに行ったため、帝国の経済的基盤は弱体化の一途を辿った。

 帝国はかつての栄光を取り戻すかに思えたが、トルコ人の進撃の前にその目標は打ち捨てられた。

 

Ⅹ 終末論的な宿命論 〜思想に逃げ込んだビザンツ人〜

 この間にもトルコ人は帝国各地を征服し続けた。アナトリア半島は全てトルコ領となり、バルカン半島にも押し寄せてきた。中央はトルコ人との同盟やヴェネツィアとの接近などを推し進めるが、いずれも一貫性がなく政府も市民も混乱した。教会合同により西欧の支援も求めようとしたが、かつてのラテン人を憎む感情は消えておらず「ローマ教皇の冠を見るくらいなら、トルコ人の帽子の方が良い」という発言まで出る始末だった。もはや帝国の市民は盲目的に教会を信じるしかなかったのである。

 市民は帝国のこのような状況は神の罰であり、コンスタンティノープルが滅亡する事で全世界の罪を償おうと考える様になった。帝国の滅亡は神のみわざに登録されていると固く信じていた。ビザンツ人は自らの滅亡すらも正当化して最後のプライドとも言えるような論争を延々と続けた。

 1453年にトルコ人によってコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ世界は滅亡した。最後の皇帝コンスタンティノスの英雄的な死は昔日のビザンツ帝国に威光にふさわしいものであった。この皇帝の復活を根拠に、トルコ人支配の下でギリシア人は19世紀まで耐え忍ぶことになった。

 

感想

 軽い要約のはずが3000文字を超えてしまいました。なぜだ……。

 やはりビザンツ帝国の魅力は外敵の圧迫でその内情や姿を変えつつも、最後まで古代ローマ帝国の理想を想い続けていた点だと思います。最期の「コンスタンティノープルが滅亡する事で全世界の罪を償おうと考える様になった。」あたりなんかはまさにそんな感じ。

 この本では帝国がその時々に応じてどのように考えて行動していたか、とその要因がキッチリと書かれています。この要因というのが外的な圧迫は当然として、皇帝の行動が原因となっていることも結構多いと感じました。もちろん皇帝は「神の代理人」を主張していたのでそれも当然ですが、古代ローマは皇帝が無能でも国家自体は盤石だった印象です。この辺りからも古代ローマビザンツの違いを読み取れました。

 結構読みやすくオススメですが、ビザンツ帝国に関するある程度の知識(ユスティニアヌスやバシレイオス2世など)は知っておかないと意味が分からないと思います。まぁかくいう私も井上浩一氏の著作を何冊か読んだだけなのですが。

 

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